1
.神がそのしもべらに定めたもうた最初の義務は、神の啓示の曙であり、神の法のである者、神の大業の王国と、創造の世界の双方において神の地位を代表する者を認めることである。いかなる者であれこの義務を遂行した者は、全ての善に達したとになる。そしてそれを奪われている者は、いかなる兼直な行いの実行者であろうも、道を踏み迷った者である。この最も荘厳なる地位、この超越した栄光の頂上にした者には、世界が願望する御方の法令のすべてに従うことが似つかわしい。このように、聖なる霊感の源である者により定められている。
2.神が洞察力を授けたもうた者らは、神が規定したもうた教えが、世界の秩序の維と人々の安全のための最高の手段であることを容易に認めるであろう。それから顔そむける者は、卑しく愚かな者の内に数えられよう。われはまことに、汝らが自分邪悪な情欲と、腐敗した欲望の命じることを拒否するよう、そして最も高遠なる御のペンが定めた限度から逸脱せぬよう命じた。なぜなら、これらは、全創造物への息吹であるから。聖なる英知と聖なる発言の大洋は、すべてに慈悲深き御方の息の微風で満ちている。急いで行き、自分の分け前を心行くまで飲むがよい。おお、解力ある者らよ。神の命令を破ることによって神の聖約に違反し、背を向けた者ら、全てを所有したまう御方、最も高遠なる御方である神の眼には、大きな過ちを犯した者らとなるであろう。
3.おお汝ら、世界の人々よ。わが命令は、わがしもべらの間の愛情ある摂理のランプであり、わが創造物に対するわが慈悲の鍵であることを確信せよ。このように、それは、啓示の主である汝の主の意志の天から下された。ある者が、慈悲深き御方の御より発せられるよう意図された言葉の甘さを味わったなら、その者は、彼の恩寵深配慮と、愛情あふれる親切の曙の上に輝く彼の命令の真実の一つでも、その正当性立証するためならば、たとえ地上の宝を所有していようとも、それらすべてを放棄するであろう。
4.言挙げよ。わが法律からは、わが衣の甘い香りが嗅がれ、そしてその援助により、 勝利の旗は、最も高い頂にたてられよう。わが威力の舌は、わが全能なる栄光の天上から、次のような言葉をわが創造物に話しかけた。「わが美を愛するがために、わが命令に従え」と。いかなる舌も描写することのできない恵みの香りに満ちたこれらの言葉から、自身の最愛なる御方の聖なる芳香を吸った愛しき人は幸いである。わが命にかけて。わが恵み深き恩恵の両手から公平の選り抜きの美酒を飲んだ者は、わが創造物の曙の上に輝くわが命令の周りを回るであろう。
5.われが単なる法典を汝らに啓示したと思うな。いやむしろ、われは強大と威力のもて、選り抜きの美酒の栓を開けたのである。これについては啓示のペンが書き記したことが証言する。これについて瞑想せよ、おお洞察力ある者らよ。
6.われは聖句の啓示者である神に対して、正午と朝と夜に捧げる.よう、九つのラーカーから成る必須の祈りを汝らに命じた。われは、神の書の命令として、より多くの数を唱えることを免除した。まことに彼は、命令者、全能者、制限を受け給わぬ御方である。この祈りを捧げたいと欲するときには、わが量も神聖なる面前の宮居に向かえ。それは、神が、その周囲を天上の群衆が回る中心点となし、永久の、諸々の都市の住人らのための崇敬の点と定め、天と地にいるすべての者への命令の源として定め給うた、この聖なる地点である。そして真理と発言の太陽が沈んだ後には、われが汝らのために定めた地点へ顔を向けよ。まことに彼は、全能にして、全知であり給う。
7.すべての存在は彼の抵抗しがたい命令によって生じたのである。わが法律が、わが発言の天から太陽のごとくに現れるときにはいつも、すべての者はそれに忠実に従わらねばならない。たとえ、わが命令が、あらゆる宗教の天界を粉砕してしまうようなものであったとしても。彼は望みのままになしたまう。彼は選びたまう。そして、誰であれ彼の選択に異論を唱えることは許されない。愛されし御方なる彼が定めたもうたことは、何であろうとも、まことに愛されることなのである。これについては、全創造物の主なるお方がわが証人なり。全てに慈悲深きお方の甘い芳香を嗅ぎ、この発言の源を認識した者は、神の法律の真実性を人々の間に確立するために、自らの眼をもって敵の矢を歓迎するであろう。それに向かい、運命を決定する神の法令の意を理解した者は幸いなり。
8.われは必須の祈りの詳細を別の書簡に記した。全人類を支配したまう御方によって従うよう命じられたことを実行する者は幸いなり。「故人のための祈り」では、句の啓示者である神により、六つの特定の文が規定された。字の読める者は、この文の前に記されたものを唱えるがよい。神は、字の読めない者にはこの義務を解かれた。まことに、神は強大なる御方、許したまう御方である。
9.毛髪は汝の祈りを無効にはしない。また、精神が去ってしまっているもの、たとえば骨やそれに類似するものも無効にはしない。汝らは、ビーバーやリスやその動物の毛皮を着ると同じように、黒てんの毛皮を着ることができる。その使用の禁止は、コーランに由来するのではなく、神学者たちの誤解によるものである。彼はまことに、栄光に満ちたもう御方、すべてを知りたまう御方である。
10われは成人に達したときから祈りと断食をするよう汝らに命じた。これは、汝らの主、汝らの祖先の主なる神により命ぜられたことである。神は、ご自身の御前よりの恩恵として、病気や高齢のために虚弱な者についてはこの義務を解かれた。そして、神は許したもう御方、寛大なる御方である。神は、清潔な表面ならどこであろうとひれ伏してもよいという許しを汝らに与えたもうた。われはこれに関して、聖典において規定された制限を取り除いたのである。まことに、神は汝らが全く知らぬこといて知識を持ちたまう。洗浄用の水が見つからない者は、「最も純粋に在し、最も純粋にまします神の御名において」という言葉を五回繰り返し、それから祈るがよい。これが、すべての世界の主の命令である。昼間や夜が長くなる地域では、時計やそのの時間の経過を示す手段で祈りの時間を合わせよ。まことに、神は解説者にして、明なる御方である。
11.われは汝らに対し、徴証の祈りを唱える義務を廃棄した。恐ろしい自然現象が起ったときには、すべてを聞き、すべてを見たまうお方、汝らの主の強大さと威厳と思い起こして次のように唱えよ。「支配は神と共にあり、神こそは目に見えるもの、えぬものの主に在し、創造の主にまします。」
12.必須の祈りは汝らがめいめい独りで捧げるように命ぜられている。「故人のため祈り」以外の会衆の祈りの慣行は廃止する。まことに、神は命令者にして、すべて賢き御方である。
13神は月経の期間中にある女性を「必須の祈り」と断食から免除された。その代わりに彼女らは洗浄の後、その日の正午から翌日の正午の間に「光輝と美の主なる神にあれ」という言葉を、95回繰り返し唱えることによって神を賛美するがよい。それはかくの如く、聖典の中に定められた。汝らもし理解する者ならば。
14旅行中にもし汝ら安全な場所に止まって休むならば、男性も女性も同じように、捧げていない「必須の祈り」の数に対して、一度ひれ伏し、その状態で「強大さと威厳、恩寵と恩恵の主なる神に栄光あれ」と唱えよ。これができない者は「神に栄光あれ」とだけ唱えよ。これでその者には十分である。彼はまことに、すべてに満ち足りたまい、永続したまい、許したまい、憐れみ深き神である。ひれ伏す動作を終ったなら、足を組んで、男性も女性も、18回、次のように繰り返すがよい。「天と地の王国の主なる神に栄光あれ」。このように主は、真理と導きの方法を明らかにされる。それらの方法とは、一つの道につながるものであり、それはこの一直線の道である。この最も恩寵深き好意について神に感謝を捧げよ。諸々の天と地とを取り囲んだこの恩ついて神に賛美を捧げよ。全創造に浸透したこの慈悲のゆえに神を讃えよ。
15言挙げよ、神はわが隠されたる愛を宝を開く鍵となし給うた。汝ら、もしそれをきるならば。その鍵がなければ、宝は永遠に隠されたままであったであろう。もしそれを信じるならば。言挙げよ、これが啓示の源であり、光輝の黎明の地であり、その明るさは世界の諸々の地平線を明るく照らしたのである。汝ら、もしそするものならば。これこそまことに、あの確定された法令であり、それを通しての取消し不可能な法令が確立されたのである。
16. おお、最も高遠なる御方のペンよ。言挙げよ。おお、世界の人々よ。われは汝らの短期間の断食を命じた。そして、その終わりにフィーストとしてノー・ルーズを定めた。このように、始めと終わりの主なる御方により定められた如く、発言の昼の星は聖典の地平線上に輝いた。月々を超過する日々を、断食の月の前に置くがよい。われはこれらの日々を、すべての夜と昼の中で「ハ」という文字の現われとして定めた。このように、それらは年やその月々の枠にとらわれないものである。これらの日に、バハの人々は自分や親族、貧しい者や困窮者に喜びをもたらす義務があり、喜びと歓喜を持って、自らの主を歓迎し、讃え、主の賛美を歌い、主の御名を讃える義務がある。そして、自制の時期の前にあるこれら施しの日々が終わったら断食を開始せよ。このように、全人類の主なる御方により定められた。旅人や病弱者、子供をみごもっている者や授乳中の者らには断食の義務はない。彼らは、神の恩寵の印としてより免除を受けている。まことに神は、全能なる御方、最も寛大なる御方である。
17.これらは神の最も崇高なるペンにより諸々の聖典や書簡に記されている神の法である。神の法規と命令にしっかりとつかまるがよい。そして、自らの愚かな妄想空しい空想とに従って自らが定めた基準に固執し、神が規定したもうた基準を投げてた者らの一人となるな。日の出から日の入りまで飲食を控え、聖典に定められたの恩寵を、欲望のために奪われぬよう注意せよ。
18.審判の主である神を信じる者はすべて、毎日、手と顔を洗った後、座し、神の方を向いて「アラホ・アブハ」を95回繰り返すよう定められている。天の創造者が、厳と力を持って、自身の諸々の名の玉座に自らを確立させたときの命令とはそのよなものであった。「必須の祈り」を唱える時も同様に洗浄を実施せよ。これが、比なき御方、抑制されない御方なる神の命令である。
19.汝らは殺人や姦通を犯すこと、陰口や中傷をすることを禁じられている。神聖なる聖典や書簡にて禁じられていることを避けよ。
20.われは相続財産を七つの部類に分けた。子供達には、540株を構成する九分を割り当て、妻には480株を構成する八分、父親には420株を構成する七分、母親には株を構成する六分、兄弟には五分または360株を、姉妹には四分または240株を、そして教師には、三分または180株を割り当てた。これがわが「先駆者」の法令であった。彼はわが御名を夜中、そして夜明けに賛美する者であった。われは、まだ生まれていない子らの叫びを聞いたとき子供の分け前を二倍にし、残りの分け前を減らした。彼はまことに、欲するがままに定める力があり、また、その最高の強大さにより、通りのことをなし給う。
21.故人に子供がない場合、子供の分け前は正義院に帰属する。それは、慈悲にたもう御方の信託人らにより、孤児や未亡人、公共の福利のために費やされる。することにより、全ての者が、栄光に満ちたもう御方、許したまう御方なる彼らの主に感謝を捧げんがために。
22.故人が子供を残している場合、しかし聖典で規定されている他の部類の相続人がいない場合、子供は遺産の三分の二を受け取り、残りの三分の一は正義院に帰属ことになる。それが、すべてを所有したまう御方、最も高遠なる御方により、栄光をもって与えられた命令である。
23.もし故人に規定された相続人はいないが、親族の中に甥や姪(兄弟、姉妹どちらの筋でもよい)がいる場合、遺産の三分の二は彼らに分けられる。あるいは、もし甥や姪がいない場合は叔父や叔母(父方と母方の筋で)に渡り、さらにこれらがない場合は、叔父や叔母の息子や娘に分けられることになる。いずれの場合も、残り三分の一の遺産は正義の座へ帰属する。すべての者を支配する御方は聖典中にこのように規定された。
24.もし故人の遺族に最も高遠なる御方のペンにより記された名のいづれもない場合は、故人の財産はすべて前述した座へ帰属する。それらが神により規定されたことに費やされんがために。まことに、神は定めたまう御方、全能なる御方である。
25.われは故人の住まいや衣服を女性ではなく男性の子供に割り当てた。そして、その他のいかなる相続人にも割り当てていない。まことに、彼は寛大に在し、恩恵に満ちたもう御方である。
26.故人の息子が、父親の生存中に亡くなり、子供を残している場合、この子供達は神の聖典に規定されているごとく、父親の取り分を相続する。汝ら、彼らの取り分を彼らの間で完全なる正義をもって分割せよ。このように、発言の大海はうねりを上げ、全人類の主によって定められた法律の真珠を打ち上げたのである。
27.故人が未成年の子供を残した場合、子供達の取り分は、信頼できる者、あるいは会社に委託されなければならない。子供が成年に達するまで、彼らの代わりに商いや事業に投資するためである。信託人は、このようにして得られた利益のうち妥当な取り分を受け取るべきである。
28.財産の分割はホゴゴラが支払われ、借金が清算され、葬儀と埋葬の費用が支払われ、故人が威厳と敬意を持って墓地へ運ばれるような取り計らいがなされて初めて、行われるべきである。初めと終わりの主に在す御方はこのように定めたまう。
29.言挙げよ。これこそが決して変わることのない隠された知識である。なぜなら、その始まりは九とともにあり、九は隠され、かつ明白なるもの、侵すことができず、また近寄ることのできないほど崇高なる御名を示す象徴であるが故に。われが子供らに割り当てたものについては、神が子供らに付与したもうた恩恵である。子供らが、憐れみ深き御方、慈悲深き御方なる彼らの主に感謝を捧げんがために。まことに、これらが神の法律である。自らの、卑しく利己的な欲望にそそのかされて、それらを侵すなかれ。発言の夜明けの地なる御方により、汝らに課されたる法令を遵守せよ。神のしもべらの間の誠実なる者らは、神が定めた教えをあらゆる信教の信奉者らへの生命の水として、また天と地のすべての住人らへの英知と、愛情ある摂理のランプとして見なすであろう。
30主はあらゆる町に「正義院」が設立され、そこにバハの数の評議員が集うことを定めたもうた。しかし、この数を越えても構わない。彼らは、崇高なる御方、最も高遠なる御方である神の面前に入る者、眼に見えざる御方を見る者として、自らを見なすべきで蜂彼らは人々の中の慈悲深き御方の号託人となり、地上に住むすべての者のために、神より任命された擁護者として自らを見なさなければならない。共に協議し、神のしもべらの利益を神のために、ちょうど自分たちの利益を考慮するように考慮すること、そして適切なことを選ぶことが彼らの義務である。このように汝らの神なる主は汝らに命令された。神の書簡に明確に啓示されているものをなおざりにすることのないよう、汝ら、注意せよ。神を畏れよ、おお、感知する汝らよ。
31.おお世の人々よ!汝ら、すべての宗教の主なる御方の御名において、各地に礼拝堂を建設せよ。存在の世において、できる限り完璧にそれらを建て、画像や偶像ではなく、それらにふさわしいもので礼拝堂を飾れ。そうして、輝きと喜びもて最も憐れみ深き御方なる汝らの主をそこで賛美せよ。まことに、主を記憶することにより眼は喜ばされ、心は光で満たされるのである。
32.主は可能な者に対しては神聖なる家へ巡礼することを定めたもうた。そして、主は御自身の慈悲としてこの定めから女性を免除された。まことに、主は恩恵に満ちたもう、最も寛大なる御方である。
33.おお、バハの人々よ!汝らは各自、技能や商業など、何らかの職業に従事する義務がある。仕事に従事する汝らのその行為を、われは唯一真実なる神の崇拝と同じ位にまで高めた。おお人々よ、汝らの主の恵みと祝福について熟考し、夕べや夜明けに主に感謝を捧げよ。怠惰や怠慢で汝らの時間を無駄にすることなく、むしろ汝らと他の者らの利益になることに専心せよ。この書簡はこのように定めるのである。この書簡の地平線からは英知と発言の昼の星が輝いた。神の眼において最も蔑まされる者は、座して物乞いをする者である。手段の綱にしっかりと捕まり、すべての富の供者なる神に汝らの信頼を置くがよい。
34.手に接吻することは聖典において禁止されている。この習慣は栄光と命令の主なる神により禁じられている。他の者から赦免を求めることは誰にも許されない。悔い改めは汝ら自身と神の間において行え。まことに神は許したまう御方、恵み深き寛大なる御方、悔い改める者を許し給う御方である。
35.おお汝ら、慈悲深き御方のしもべらよ!神の諸々の印の曙を否定した者らが引き起す不安や悲しみに惑わされることのない程の熱意をもって神の大業への奉仕に上がれ。約束が果たされ、約束された御方が出現した時、地上の民の間に意見の相が生じ、人々は皆、自らの空想と愚かな妄想に従ったのである。
36.人々の中には入り口のそばで下駄の間に座す一方、心中では栄誉の座を強くている者がいる。言挙げよ。汝は一体何という人間なのか。おお汝、自らの本性と違う姿を装う者よ。また、人々の中には内なる知識を、そしてこの知識の内部に隠されているさらに深い知識を有していると主張する者がいる。言挙げよ。汝は偽りを語っている!神にかけて!汝が有するものは、犬に残される骨のようにわれが汝に残した籾殻にすぎないのである。唯一真実なる神の正義にかけて!ある者が、全人類の足を荒い、森や谷や山、高い丘や高い山の頂上で神を崇拝し、岩や樹や土の塊までがすべ,その礼拝の目撃者だったとしても、もしわが喜びの芳香をその者からかぐことができなければ、その者のなしたことは神にとって受け入れられるものではない。すべて、ものの主なる御方はかくのごとく定め給うたのである。インドの地に身を隔離し、神が合法と定めたもうたものを拒否し、禁欲生活や難行・苦行を自らに課したにもかわらず、聖句の啓示者なる神により記憶されなかった者らが何と多くいたことか。汝らの行いを自らの願望の対象を陥れる罠としてはならない。そして、神に近づいたらすべてが常に切望してきたこの究極の目標を己より奪ってしまわぬようにせよ。挙げよ。すべての行為の生命そのものは、われを満足させることである。すべてのとはわが承認に依存する。汝ら、諸々の書簡を読むがよい。栄光に満ちたもう御方、に恵み深き御方なる神の諸々の聖典において、何が意図されていたかを理解するために。わが愛に達する者は黄金の玉座を有し、全世界にまさる栄誉を持ってそこに座す権利を有するのである。わが愛を奪われし者は塵の上に座すとも、その塵でさえもすべての宗教の主なる神に避難所を求めるであろう。
37一千年が完全に経過する前に自らを神より下された直接の啓示の顕示者と称するは、正しく虚偽を語る偽り者である。その者がそのような主張を撤回し放棄するよ神が恩寵深く援助されるよう、われは神に祈る。もしその者が悔い改めるならば、無論、神は彼を許されるであろう。しかし、もし過ちに固執するならば神は必ず、その者を容赦なく扱う者を遣わされるであろう。罰することにおいては、誠に神は畏るべき御方である。この言葉をその明白な意味以外に解釈する者は、万物を取り巻く神の慈悲と聖霊から見放された者である。汝ら、神を恐れ、自らの愚かしい妄想に従うことなく、全能にして聡明なる汝らの主の命に服従せよ。やがて、叫びの声がほとんどの国で上げられよう。それらを避けよ、おお、わが民よ。また、不公平で邪悪な心持つ者らに従うな。これは、われがイラクに住んでいたとき、その後は神秘の地に、たときに、汝らに出した事前の警告のことである。そして今は、この輝かしき場所らその警告を出している。
38おお、世の人々よ、わが美の昼の星が沈み、わが幕屋の天界が汝らの眼から隠された時、落胆してはならない。わが大業を促進し、わが言葉を人々の間に高めるため立ち上がれ。われは常に汝らと共にあり、真理の力で汝らを強めるであろう。われまことに全能である。われを認める者は皆、天と地のいかなる勢力もその行く手をくむことのできないほどの強い決意をもって立ち上がり、われに仕えるであろう。
39.世の人々は深い眠りにある。その眠りから目覚めれば、彼らは全てを知り、全て賢明なる神のもとへと、一心に急ぐであろう。主が彼らのことを心に留め、わずか匿一言でも主に言葉を掛けてもらえるならば、彼らは地上のすべての財宝を所有してい症としても、それらを一切投げうつであろう。隠されたる諸事の知識を有する者はかくして汝らに勧告する。彼はその知識を、創造物の目には触れることのない書簡に納めた。そしてその書簡は諸々の世の全能なる加護者である彼以外の何者にも明されることはない。邪悪な欲望に酔いしれるあまり人々は非常な困惑に陥っている。そのためにもはや彼らは、「われをおいて神はなく、われは強大にして、全てに賢明なる者なり」と声高らかに四方より呼びかける万物の主を認めることができないのである
40.言挙げよ。汝の所有物を汝の喜びとしてはならない。それらは、今宵、汝が所有していようとも、明日には他人のものとなる。全てを知り、全てに精通した者が汝らにこう注意するのである。言挙げよ。汝らの所有物が確かなものであり、永続するのであると断言できようか。否、最も慈悲深きわれ自身にかけて言う。汝の生涯の々は、一陣の風のごとく過ぎ去り、汝の誇る華美や栄華は、先立った者らの睾美や、華と同様に崩れ去るのである。熟考せよ、おお人々よ。汝らの過ぎし日々と、失われた幾百年もの時の流れはどうなったのか。神の思いに捧げた日々は喜びの日々であり、聡明なる御方の賛美に過ごした時は、祝福された時である。わが命にかけて誓う。力者の栄華も、富豪の富も、また、不信心者の優勢さえも持続するものではない。の一言でそれらはすべて消滅する。まことに神は御力に満ち、全能にして、すべて屈服させ給う御方である。人々の所有するこの世の物に何の利益があろうか。彼ら自分たちの真の利益となるものをまったく無視している。そのうち彼らは眠りからさめ、全能にしてすべてに賛美される彼らの主の日々に逃したものは、もはや取り戻せないことを知らされよう。このことを悟っていたならば、神の玉座の前に彼らの名語られるためには、彼らは自らのすべてを放棄していたであろう。まことに、彼ら死者の内に数えられる。
41.人々の中には学識により傲慢になり、ご自力にて存在し給う者というわが轡認識することから妨げられた者がいる。そのような者は自分の後ろについてくるの音を聞くと、ニムロデよりもその自尊心が大きくなる者である。言挙げよ。おお拒絶されし者よ。ニムロデの住まいは今どこにあるだろう?神にかけて。それは最も下界の火中にある。言挙げよ。おお聖職者らの群衆よ。わが崇高なるペンの甲高い音聞こえないか。栄光に満ちた地平線上に、まぶしいほどに輝くこの太陽が見えない汝らは自らの邪悪なる情欲という偶像崇拝をいつまで続けるというのか。汝らの空しい想像を捨て去り、汝らの永遠なる主である神の方へ向かうがよい。
42.慈善行為のために捧げられた基金は、葡苛の啓示者である神に帰属する。啓示の夜明けの地である御方の許可なしには誰もそれを処分する権利はない。その彼の後、この権限はアグサンらに継承され、その後は正義院一一それまでにこれが世界に設立されていれば一一に受け継がれる。彼らがそのような資産をこの大業において地位高められている諸々の聖地のため、また、強大と力の神なる御方により彼らに命ぜられている事柄に使うために。さもなくば、資産は彼の許司なしに語ることなく、この書簡において神が定め給うたことに応じてのみ判断するバハの人々に帰属する。見よ.彼らは天と地の間の勝利の雄者である。その彼らが、強大なる御方、恵み深き毎方ある神によって聖典中に規定された方法でその資産を使うために。
43.試練にあっては嘆くなかれ。また、試練の中にあってそれを喜ぶなかれ。汝ら中道を求めよ。中道とは苦難の中にあってわれを記憶し、将来汝らに降り懸かるかもしれないことについて黙考することを意味する。このように、全知者、認識者は汝らに伝えたまう。
44.剃髪してはならない。神は毛髪を頭の飾りとし給うたのである。このことには、然の必要条件について考える者らに対する創造主からの徴がある。彼はまことに力英知の神である。しかしながら、髪を耳たぶよりも越えて伸ばすことは似つかわしない。全ての世界の主なる御方はこのように定めたまう。
45盗人に対しては追放と投獄が定められている。そして、三回目の犯行におよんで、その者の額に印をつけて、それによって彼がそうであることが確認され、神の諸の市や国に受け入れられないようにする。汝ら、憐れみがために、神の宗教の法令実行を怠らぬよう警戒せよ。憐れみ深く、慈悲深き御方によって、汝らに命じられにとを実行せよ。ちょうど息子を教育する父親のように、われは汝らを英知と法律の枝で訓練する。そしてこれは、汝ら自身の保護と汝らの地位の向上のみを考えての臣である。わが命にかけて、われが聖なる法律を啓示するにあたってわれが汝らにしことを発見するなら、汝らはこの神聖にして強大で、最も崇高なる信教のため汝らの魂そのものを捧げるであろう。
46. 金や銀の器を使いたいと思う者はそうするがよい。食事をするときに、椀や皿の手を突っ込まぬよう注意せよ。汝ら、優美にかなった作法を身につけよ。まこと神はその強大にして最も荏厳な王国における楽園の住人らの作法を汝らの内に見たいと望まれる。いかなる状況においても優美であることに固執せよ。汝ら自身と楽園の住民者らにとって嫌悪となるようなものを見ることから、汝らの眼が守られるに。そこから逸脱する者の行為はその瞬間に無益になる。しかし、もし妥当な理由があれば、神はその者を容赦し給う。まことに、神は御仁慈の御方、最も恵み深きである。
47神の大業の黎明の場である御方は、神の最高の不過誤性において仲間はない。は創造の王国においては「彼は望み通りのことをし給う」ということの顕示者である。神はこの特異性をご自身に保留したまい、荘厳にして超越的な地位においても共有権を定めておられない。これこそは貫通することのできぬ神秘の内部にこれまで隠されていた神の法令である。われは、それをこの啓示において明らかにして、その法令により、神の聖典に記されたことを認識できず、不注意なる者に数えられた者らのヴェールを引き裂いたのである。
48すべての父親には、読み書きの技能や聖なる書簡に示されたあらゆることについて娘を指導する義務がある。自らに命ぜられていることを怠る者については、父親が裕福であれば、信託人らは教育に必要な費用を父親から徴収し、裕福であればそのことは正義院に委ねられる。まことに、われは正義院を貧しき者や困窮者の非難所とした。自分の息子、あるいは他人の息子を育て上げる者は、われ自身を育てたに等しい。そのような者には、世界を取り囲んだわが栄光と愛情ある、慈悲とが宿らん。
49神は姦通を犯す者、男性にも女性にも、罰金を課したまい、罰金は正義院に支払われることとした。その罰金は金9メスガルであり、もし違反を再び犯したら、罰金は二倍となる。姦淫した者に対して諸々の御名の主なる御方がこの世において課し給う罰則はこれである。そして、来るべき世において、神は、屈辱的な苦悶を彼らに定めておられる。もしある者が何らかの罪を犯しているならば、それについて悔い改め、自分の主の所へ戻ることが彼にとって相応しい。主は、望み給えば誰にでも許しを与えられ、主が望み通り定め給うことに関して、それに異論を唱える権利は誰にも与えられていないのである。主はまことに、常に許し給う御方、全能なる御方、最高に賛美され給う御方である。
50.汝ら、栄光の暗幕によって、この生きた泉の水晶のごとく澄んだ水を飲むこと妨げられぬよう警戒せよ。夜明けをもたらし給う御方の御名において、汝らこの夜明けの時に救済の杯をつかむがよい。栄光に満ち、比類なき御方を賛美し、心ゆくまで飲むがよい。
51.われは、汝らが音楽や歌を聞くことを合法とした。しかし、それらを聞くことより礼節と威厳の限界を越えぬよう注意せよ。わが最大名から生まれた喜びをもって汝らの喜びとせよ。それは心に歓喜をもたらし、神に近づいた者らの理性を陶酔させる御名である。まことに、われは音楽を汝らの魂の梯子とし、魂を天上の領城に引き上げる手段とした。それゆえ、それを自我と情欲の翼としてはならない。まこと、われは、汝らが愚かな者の中に数えられるのを見たくはない。
52.われは、あらゆる罰金の三分の一は正義の座へ送られるよう定めた。また、は正義の座の紳士らに対し、純粋なる正義を守り、蓄えられたものを、全知者、に賢き御方が命じ給う目的に使用するよう忠告する。おお汝ら、正義の紳士らよ。神の領土において神の羊らの羊飼いとなり、扮装して現れる強欲な狼たちから彼ら護せよ。汝らが自分の息子らを保護すると同様に。助言者であり、忠実なる御方汝らにこのように勧告し給う。
53.汝らの間でもし、ある事柄について意見の相違が起きたならば、太陽がまだ天の地平線上に輝いている間であれば、それを神に照会するがよい。そして、その太陽が沈んだ後には、彼により下されたものに照会せよ。これはまことに、世の諸々人々にとって十分である。言挙げよ、おお人々よ。わが存在の栄光が退き、わが言葉の大海原が静まる時、心を乱されてはならない。われが汝らと共にあることには道理があり、わが不在にもまた違った所以がある。比類なき者、全治者なる神以外はそれを知り得ない。まことにわれはわが栄光の王国より汝らを見守り、わが大業に利のために立ち上がる者には誰であれ、天上の軍勢と、わが愛する天使の一団をもって援助の手を差し伸べるであろう。
54.おお地上の人々よ。永久の真理に在す神こそ、わが証人なり。何ら拘束されらの主の語った甘美なる言葉により、岩の中からも静かに流れる清水が湧き出たのである。にもかかわらず、汝らは今もなお眠りにある。財産を投げ捨て、世俗超に乗り、すべての創造物を越えて高く舞い上がれ。そのペンの動きにより全人類の魂に変革をもたらした創造の主は、汝らにこう命じるのである。
55.栄光に満ち給う汝らの主が、どれほど高遠な所から呼びかけているかを、汝らは承知しているのであろうか。諸々の名の主が汝らに命令するに用いたペンを、汝らは正しく認識したと想像しているであろうか。わが命に誓って言う、決してそうではない。もしこのことを理解していたならば、汝らはこの世のものを捨て、最愛なる者のへと、一心に急いだであろう。そして、最愛なる者の言葉に魅せられ、汝らの魂は喜びに枕惚となったであろう。その喜びは、全宇宙をも激動させるほどのものであり得たのである。とすれば、この狭く、取るに足りない世界にあってはどれほどの激動か起こったであろうか。このようにしてわが恵沢の雨水は、わが慈愛の天上より注がれたのである。これこそはわが恵みの証しである。さらば汝ら、感謝する者であれ。
56人に怪我をさせたり叩いたりすることに対する罰は、負わせた怪我のいかんによしそれぞれの程度に応じて、審判の主はいくらかの賠償金を規定された。主はまことに、定め給う御方、強大なる御方、最も崇高なる御方である。われは、もしそれが意志であるならそのような賠償金額を公平な程度において述べるであろう。これわが約束である。まことに、主はご自身の誓いを守り給う御方であり、全知者である。
57.まことに汝らは、毎月一回フィーストをなすよう命ぜられている。たとえ、水だしかなくとも。なぜなら神は、天と地の双方の手段を合せてでも汝らの心を結びつけることを意図し給うが故に。
58肉体の欲望と堕落した心の抱く欲望とによって、汝らの間に分裂が生じることなきよう注意せよ。汝ら、一つ手の指のごとく、また、一つ身体の器官のごとくあれ。かくして啓示のペンは汝らに勧告するのである。おお、汝ら、信じる者ならば。
59.神の慈悲と賜物について熟考せよ。神はいかなる被造物をも必要としない。にもかかわらず、神は汝らに対し、汝らを利することを命じ給う。汝らの悪行は決してわれを害することはない。汝らの善行もまたわれを利することはない。われはもっぱら、神のためにのみ汝らに呼びかけるのである。このことは、理解と洞察力を持つすべての者が証言するところである。
60.もし汝ら、捕獲用*の動物や鳥を使って狩猟するならば、それらを捕獲に出すときに、神の御名を呼びかけるがよい。そうすれば、それらが捕まえてくるものが仮に死んでいたとしても、汝にとって合法的なものとなる。神はまことに、全知にして全てに精通し給う御方である。しかし、過度に狩猟せぬよう、注意せよ。全てのことにおいて、正義と公平の道を歩くようにせよ。このように、啓示の夜明けの場なる御方は、汝らに命じ給う。汝ら、理解する者なれば。(*狩猟の時に仕留めた獲物を取りに行かせる動物のこと。訳者注。)
61.神は汝らがわが親族に親切であるよう命じ給うた。しかし、他人の財産に手をつける権利をわが親族に授けてはおられない。まことに、神は創造物を必要とされず、ご自力にて存在し給う。
62.ある者が、意図的に家に放火したならば、その者自身も焼かれなければならない。また、故意に人の命を奪ったならば、彼自身も殺されねばならない。汝ら、強さとの限りを尽くして神の教えにつかまれ。そして、無知な者のやり方を捨て去れ。放火犯と殺人犯を終身禁固刑に処すことは聖典の規定で許されている。まことに、彼は、望み通りに命ずる力を持ち給う。
63.神は、結婚を汝らのために規定された。二人より多くの妻をめとらぬよう注意せよ。神の侍女の中から、一人の伴侶を選んで満足するならば、夫も妻も、平穏のうちに生きるであろう。女中を雇いたい者は、礼節を持ってそうすることができる。これが、啓示のペンにより、真実と正義において記された法令である。おお人々よ、わがしもべらの間でわれのことを述べる者をもたらすために、結婚せよ。これは、汝らに対するわが命令である。自分自身のために、それに確固としてつかまるがよい。
64.おお世の人々よ。自我の誘惑に従うな。それは、邪悪と肉欲へと執拗に呼びかるものである。むしろ、全創造物を所有し給う御方、信心深く、神への畏れを示すよう汝らに命じ給う御方に従え。まことに、彼は、いかなる創造物からも独立し給う秩序が整えられた後に、国に扇動を起こすことがないよう注意せよ。このようなことをする者は、われには属さない。われはそのような者と関係を持たない。それが、示の天より、真理の力を通して顕現された命令である。
65.バヤンにおいて、結婚は結婚する二人の同意を条件とした。わがしもべらの愛と和合と調和の確立を欲したわれは、二人の望みが明らかになった後に、結嬉にいて双方の両親の許しを条件とした。彼らの間に敵意や恨みが起きないように。そて、われはこれにまだいくつかの目的を持たせた。このようにわが命令は定めた。
66.結納金の支払いなしに結婚は成立しない。結納金は、都会に住む者は純金19メガル、村に住む者は銀19メスガルと定められている。この金額を増加させたい者は、95メスガルを超えることは禁ぜられる。このように、威厳と力を持って命令は記されている。聖典によると、もし人が最低金額で満足するならその者にとって、より良いことである。まことに神は、天と地の両方の手段で、望む者は誰でも豊かになしたもう。まことに、彼は万物に対して力を持ちたもう。
67.神のしもべが旅をする時は、妻に対して家に帰る時を定めなければならない。約束したときに家に帰るならば、彼は主の命令に従ったことになり、神の命令のペンにより、清廉なる者の一人に数えられよう。さもなくば、もし、遅延する妥当な理由あるなら、妻に連絡し、家に戻るために最大の努力を払わねばならない。このどちのことも起きない場合、妻は九カ月間待つ義務がある。その後は、別の男性を夫として迎えても何の妨げもない。しかし、もし妻がさらに待つなら、まことに神は、そように忍耐を示す男女を愛される。汝ら、わが命令に従い、不信心なる者ら一一神の聖なる書簡において罪人として見なされた者ら一一に従うな。妻が待っている間に、らの便りがあれば、彼女は賞賛さるべき道を選ぶべきである。まことに神は、自のしもべらと侍女らが、互いに仲よくあることを望み給う。汝らの間に非協調的態を引き起こすことがないよう注意せよ。このように法令は定められ、約束は結ばれ。しかし、もし、夫の死や殺害の知らせが届き、世間によって、あるいは二人の公な目撃者によりそれが確認されたなら、彼女は独りのままでいることが好ましい。そして、定められた月数が過ぎた後には、自ら選択した道を取ることができる。それが、命令すべき絶対的御方による命令である。
68.夫と妻の間に恨みや嫌悪感が起きたならば、夫は妻と離婚すべきではなく、一年、辛抱強く待つべきである。愛情の芳香が二人の間に再び取り戻されるように。一年経過してもその愛情が取り戻されなければ、離婚が許可される。まことに、神の英は万物を取り囲んだ。妻に三重の離婚を求めるよう定められていた以前の手続きを、主は、主の命令のペンによって記された書簡において禁止し給うた。主はこれを好意として禁止なさった。汝ら、これを感謝する者ならば。妻と離婚した男性は、各月が経過しなら、互いへの愛情と同意があり、彼女が別の男性と結婚していなければ、その女と再婚することができる。彼女が再婚していれば、この別の結合により別離は確認され、彼女の状況が変化しない限りその事柄は終結する。このように、法令は美の黎の場である御方により威厳持てこの書簡に記された。
69.妻が夫に同伴して旅行している時、いさかいが起きた場合、夫は妻の生活費を一年間供給しなければならない。そして、元のところへ彼女を帰すか、そのために必要,旅費を添えて、家まで送るよう信頼できる人に彼女を委ねなければならない。まとに、汝らの主は、地上の諸民族を覆い包む主権により、望み通りに命じ給う。
70.妻が立証された不貞行為のために離婚された場合、待機期間中の生活費を受け取ことはできない。このように、わが昼の星は正義の大空から輝きいでた。まことに、は和合と調和を愛し、離別と離婚を忌み嫌われる。汝ら、互いに輝きと喜びを持って住め。わが命にかけて。地上にあるものは全て過ぎ去って行く。一方、善行のみが.続するのである。わが言葉の真実性については神ご自身が証言される。おお、わがしもべらよ、意見の相違を調停せよ。そして、栄光のわがペンの勧告に注意を傾け、慣なる者と片意地なる者らに従うな。
71.汝ら、以前の者らが騙されたように、この世によって騙されるな。汝らの主の法と教えに従え。清廉さと真実性において汝らの前に示されたこの道を歩ゆめ。不平と誤りを避け、美徳に固執する者らは、唯一真実なる神の眼において神の創造物中で最も優れたものである。彼らの名は、天上の領域の群衆によって、また、神の名において建てられたこの幕屋に住む者らによって賛美されている。
72.奴隷を売買することは、男性であっても女性であっても、禁じられている。自分身しもべたる者が、神のしもべの一人を買うことはふさわしくなく、これは神の聖なる書簡にて禁じられている。このように、神の慈悲により、正義のペンによって命令は記されている。誰も他の者に対して自分を優越させてはならない。全ての者は皆、神の御前において奴隷であり、全ては彼以外に神はいまさぬという真実を具現するものである。まことに、彼は全てに賢き御方に在し、彼の英知は万物を覆い包む。
73.汝ら自らを善行の衣で飾れ。自らの行為で神を喜ばせるような者は、まことにバハの人々の一人であり、神の玉座の御前で記憶される。清廉なる行為で、また、英知と発言を通して、全創造物の主を援助せよ。まことに、汝らは御慈悲に溢れ給う御方によってほとんどの書簡でこのように命令されている。まことに、彼はわれが言うことを知り給う。誰も他人と論争してはならない。また誰も人を殺してはならない。これが、栄光の幕屋の中に隠されて来た聖典において禁じられていることである。汝,神が生気を与え給うた者、神がご自身の息吹で精神を授け給うた者を殺すと言うのそれでは、神の玉座の前で、汝らの罪は甚だしいものである。神を畏れよ、そして、神ご自身が築き給うたものを破壊する不正と虐待の手を上げるな。いや、真実なるの道を歩め。聖なる発言の旗を掲げて、まことの知識の軍勢が現れるやいなや、栄に満ち給う御方の息吹により創造された楽園において永遠の生命の小川から飲む意思を持った者らを除いては、諸宗教の諸部族は逃げ出してしまった。
74.神は創造物への慈悲の徴として、精液は不浄でないと定められた。喜びと輝き持って神に感謝を捧げよ。そして、神への近接の黎明の場から遠い者らに従うな。いかなる状況の下でも、大業への奉仕をなすために立ち上がれ。なぜなら、神は諸々の世界を覆い包んだ神の主権の力を通して、必ずや汝らを援助したまうが故に。汝ら衣の上に少しの汚れの後も残さぬほどの堅固さを持って、洗練さの綱にしっかりとづかまれ。それが、全ての洗練さを超越し給う御方の命令である。正当な理由でこの基準に添えない者に対して何らとがめはない。まことに、神は寛容にして、慈悲深き方である。水の持つ三つの要素のどれにおいても変化をきたしていない水で、汚れ物をすべて洗え。空気や他の物質にさらされて変化した水を使わぬよう注意せよ。汝ら、人類の間における、清潔の真髄となれ。まことにこれが比類なき御方、全てに賢き御方が汝らのための望み給うことである。
75.神は同様に、神の御前からの恩恵として、様々な物や諸民族が汚れたものと見してきた不浄の概念を廃止された。神は確実に、常に許し給う御方、最も寛大なる方である。まことに、レズワンの最初の日に、われが、わが最も優れた諸々の御名とわが最も崇高なる諸々の属性の光輝を全創造物の上に投げかけたとき、全創造物は化の海に浸されていた。これはまことに全ての世界を取り囲んだ、わが愛情ある長の印である。そこで汝ら、全ての宗教の信奉者らと交われ。そして、最も憐れみ深き御方なる汝らの主の大業を宣布せよ。これこそ、行為の王冠である。もし汝ら、理解する者なれば。
76.神はほこりで汚れた物を洗う程度まで、最高の清潔を守るよう汝らに命ぜられ堅い泥や同じような汚れはなおさらのことである。神を畏れよ、そして純潔なる者あれ。ある者の衣が目立つほど汚れているとき、その者の祈りは神のもとへ昇っていくことができない。そして、天の群衆はその者から顔を背けるであろう。バラのエキスや純粋な香水を使用せよ。まことにこれは、神が初めなき初めより愛し給うたことる。汝らが、比類なき御方、全てに賢き御方なる汝らの主の望み給うことを放散ことができるように。
77神は本の破損についてバヤンで規定された法令から、汝らを解放された。われは味な論争に終始するようなものではなく、汝らの益になる諸科学の本を読むことを許可した。この方が汝らのためになる。もし汝ら、これを理解する者ならば。
78おお、地上の王たちよ。全ての者にとって最高の主なる御方がやってきた。王国全能なる保護者、ご自力にて存在し給う御方なる神のものである。神のみを崇拝せよ。そして輝かしき心持て、全ての名の主である汝らの主の方へ顔を向けよ。これは巧が所有する何ものにも匹敵し得ない啓示である。汝ら、もしそれを知り得たならば
79われは、汝らがわが守られし書簡によってのみ数えられる諸々の世界から自らをめ出し、他のことにおいて喜んでいるのを見る。汝らが蓄えてきた宝は、汝らの究の目的から汝らを遠く引き離してしまった。それは汝らにふさわしくない。汝ら、もしそれを理解するものならば。汝らの心から現世的汚れのすべてを洗い落とせ。そして、天と地の創造主なる汝らの主の王国へ急げ。主は世界を揺り動かし、そこに住む全ての民族を泣き叫ばさせ給うた。全てのものを放棄し、隠されたる書簡が定めたことにつかまった者らを除いて。
80.これこそは、神と会話を交わした者が日の老いたる者の光に達し、諸々の海をうらせたこの盃から再会の清き水を飲み干した日である。言挙げよ、唯一真なる神にかけて。シナィは、啓示の曙の回りを回っており、他方、王国の高所からは、「自ら震い立たせよ、おお、地上の傲慢なる者らよ。そして彼のもとへ急げ」と宣言している神の霊の声が聞こえる。カルメルはこの日、彼の宮廷に達したいと切望し、崇敬して急ぎ、シオンの中心からは「約束は果たされた。最も崇高なる方、全能者、最愛なる御方なる神の聖なる書において宣言されていたものが顕現された」という叫びがでてくる。
81.おお地上の王たちよ。最も偉大なる法律はこの場所、この超越的光輝の場におい啓示された。あらゆる隠されしものは、最高の命令者の意志により明るみに出された。その命令者は最後の時をもたらした御方であり、その御方を通して月が裂け、あらゆる変更不可能な法令が解説されたのである。
82.汝らは従属者にすぎない。おお地上の王たちよ。王の中の王なる御方が、その最もすばらしき栄光において現れた。そして、彼は汝らを危難の中の救助者に在し、ご自力にて存在し給う御方なる彼ご自身の所へ呼び出している。傲慢のために啓示の源牽認識することを妨げられたり、この世の諸事が暗幕のごとくに天国の創造者なるから閉め出されぬよう注意せよ。立ち上がれ、そして、全ての国の願望に在す御方に仕えよ。その御方はご自身からの一言を通して汝らを作り給い、汝らが當にご自身の主権の象徴となるよう定めたもうた。
83.神の高潔さにかけて。汝等の王国に手をつけることが我の望みではない。これについては諸々の名前の王国が証言する、汝ら、それを理解するものならば。自分の主に従う者はみな、世界とそこにあるものを放棄するであろう。それでは、そのように尊大なる地位を有す御方の雛脱は、どれだけ偉大なることであろうか。汝らの宮殿を捨て、彼の王国に入れ。まことにこれは、天上の主が証言し給う。汝ら、もしそれを知るならば。
84.わが王国において、わが大業を援助するために立ち上がる国王、またわれ以ものから身を離脱させる国王に対する祝福は何と大きなものであろうか。そのよ国王は、深紅の箱舟の一行の一人に数えられる。それは、神がバハの人々のために用意された箱舟である。全ての者は、その国王の名前を賛美すべきであり、彼の地位に敬意を払い、眼に見える王国と見えない王国に住む全ての者にとっての全能なる者というわが御名の鍵で、諸々の町の錠を開けることによって彼を援助すべきでそのような国王は、人類の眼そのものであり、創造物の額の上の輝かしき飾りで世界全体への祝福の源泉である。おお、バハの人々よ、汝らの財産、いや、命そのものを彼への援助に捧げよ。
85.おおオーストリアの皇帝よ。汝がアクサの寺院を訪問すべく出発した時、神の曙なる御方は、アッカの牢獄に住んでいた。汝は彼のそばを通り過ぎ、彼一一彼によってあらゆる家が崇高にされ、あらゆる高い門の錠が開けられた一一についてもしなかった。まことにわれは、それを世界が向かうべき場所となした、彼らが我を記憶するように。しかし汝は、彼が汝の主であり諸々の世界の主なる神の王国に現れたとき、この記憶の対象である御方を拒絶した。われは常に汝と共にあっそして汝が枝につかまり、根に不注意であるのを見いだした。まことに、汝の主はわれの言うことの証人である。われは汝がわれのことに気づかず、わが御名の周囲を回るのを見て悲しく思う。われは汝の面前にいるのに。この栄光あるビジョンを眼にするため汝の眼を開け。そして、汝が昼となく夜となく呼びかける御方を認識し、輝かしき地平線上に輝く光に視線をすえよ。
86.言挙げよ、おおベルリンの王よ。この明白なる礼拝堂から出ている「まこと永遠なる者、比類なき者、日の老いたる者なるわれ以外に神はなし」という声に傾けよ。傲慢によって聖なる啓示の曙を認識することを妨げられぬよう、また、世の欲望という暗幕によって、天上の玉座と下界の主から閉め出されぬよう注意このように、最も崇高なる御方のペンは、汝に助言する。まことに彼は最もみ恵み深き御方、恩恵に満ちたもう方である。汝の権力を越えて、汝の地位よりも高い壇あった者を思い出せるか。彼は今どこにいるか。彼が所有していた者はどこに行しまったのか。警戒せよ、そして深い眠りに落ち込んでいる者であるな。彼こその書簡を後ろに投げ捨てた者である。残虐の軍勢がわれに与えた苦しみについてわれが彼に知らせたときに。それゆえ、あらゆる方向から恥辱が彼に襲いかかり、彼は大庸なる損失のうちに塵へと戻って行った。彼について、そして汝と同じように諸々の町を征服し、入々を支配している者らについて深く考えてみよ、おお国王よ。慈悲に口満ちたもう御方は、彼らを彼らの宮殿から墓へと引き落とし給うた。警戒せよ。そして熟考する者であれ。
87.われは、汝らから何かを求めたことはない。われは神のために、汝らに勧告する。そして、汝らの手がわが身にもたらしたことをこれまで辛抱したように、これからも辛抱するのである、おお国王の群衆よ。
88.汝ら、おおアメリカの統治者ら、その諸共和国の代表者らよ、永久の枝の上でさずる鳩の声に耳傾けよ一一「永続する者、許す者、恩恵溢れる者なるわれ以外に、神はいまさぬ」。汝ら、正義と、神への畏れという飾りで領土の聖堂を飾れ。そしての頭を、諸々の天の創造者なる汝らの主の記憶で飾れ。このように、諸々の名前のなる御方は、全知にして、全てに賢き御方が命ぜられたように、汝らに助言する。約束された者は、この栄光ある地位において現れた。眼に見える物、見えぬ物全てがそれを喜んだ。汝ら、神の日の恩恵に浴すがよい。まことに、彼に会うことは、太陽の輝きに浴している全てのものよりも、汝にとって良いことである。汝ら、それを知得たならば。おお統治者らの群衆よ。壮大の曙より上げられたものに耳を傾けよ。ことに発言の主、全てを知り給う者なるわれ以外に神はいまさぬ。正義の手持て、破壊されしものを結合させよ。そして、命令者、全てに賢き御方なる汝らの主の命令で、繁栄する虐待者を粉砕せよ。
89.おお、コンスタンチノープルの人々よ。見よ、われは汝らの間に、ふくろうの有害な鳴き声を聞く。情欲の酔態が汝らを捕らえたか、それとも、汝らは不注意の中に沈んでいるのか。おお、二つの海岸の間に位置する地よ。まことに、残虐の玉座は汝土に確立され、憎悪の炎は汝の胸のうちに灯された。天上の群衆と、崇高なる玉座りを回る者らが泣き叫び、嘆き悲しんだほどに。われは汝の内に、愚者が賢者をするのを、また暗黒が光明を誇るのを見る。まことに、汝は、明かなる傲慢によって満たされている。汝の外面的光輝が汝を不遜にしたのか。人類の主なる御方にか。それはやがて消え去り、汝の娘らや未亡人らや汝の家に住む全ての親族らは、悲しむであろう。全てを知り給う御方、全てに賢き御方は、このように汝に知らせ給うた。
90おお、ラインの岸辺よ。われは汝が、血糊におおわれているのを見た。報復の剣が、汝に対して抜かれたからである。そして汝の上にもまたその番が来るのである。われにはベルリンの嘆く声が聞こえる、それは今、確かな栄光にあるにもかかわらず。
91何事も悲しむことはない。おお、「タ」の地よ。神は汝を全人類の喜びの源として選び給うた故に。神は望み給うならば、正義を持って統治する者、狼が散らした神の羊の群れを集める者によって、汝の玉座を祝福されるであろう。そのような統治者は大いなる喜び持て、バハの人々へ顔を向け、彼らに好意を示すであろう。まことに神の命において、そのような統治者は人々の間の宝石と見なされるのである。神の栄光と、神の啓示の王国に住む全ての者の栄光と、神の掲示の王国に住むすべての者の栄光とが彼らの上にある。
92.汝ら、大いに歓喜せよ。神は汝の内に神の栄光の顕示者を誕生させ、汝を彼の光の曙となし給うた故に。汝に授けられたこの名を喜ぶがよい。その名を通して恵みの昼の星が光輝を放ち、天と地が共に明るく照らされたのである。
93.やがて、汝の内部の状況は変えられるであろう。そして、支配権は人民の手に陥るであろう。まことに汝の主は全てを知り給う御方である。主の権限は万物を包み込む。汝の主の恩寵深き好意を確信せよ。主の優しき眼は永遠に汝の方へ向けられるであろう。汝の動揺が平和と平穏状態に変えられる日が近づきつつある。このように、それはすばらしき聖典に定められた。
94.おお、「ハ」の地よ。全ての所有者、最も崇高なる御方なる汝の主の賛美において、汝から上げられた英雄らの声が聞こえる。聖なる諸々の名の旗が、栄光に満ちたる者というわが御名を創造の王国で上げる日は祝福されん。その日、忠実なる者らは神の勝利に歓喜し、信じない者らは嘆く。
95.何者も人々を支配する者と闘争してはならぬ。彼らのものは彼らに任せて、汝らは人々の心に注目せよ。
96.おお、最も強大なる海よ。永久の主権者なる御方により汝に課せられたことを諸国にまき散らせ。そして、地上の全ての住人らの聖堂を、彼の法律の衣で飾れ。その法律を通して、全ての心は喜び、全ての眼は明るくされるであろう。
97.ある者が、100メスガルの金を得たなら、そのうちの19メスガルは天と地の造形者なる神のものであり、神に捧げられるべきである。おお人々よ、そのような偉大なる恩恵を奪われぬよう注意せよ。われはこれを汝らに命じた。われは汝らを必要とせず、また天と地にいるいかなるものも必要としないにもかかわらず。その中には全知にして、全てに精通し給う神以外のいかなる者の理解をも超える益と英知がある。言挙げよ。この手段により、神は汝らが所有しているものを純化し、神が意図し給うたもの以外の誰も理解できない地位に汝らを近づけんと欲し給うたのである。まことに神はお情け深く、御仁慈深き御方であり、み恵み深き御方である。おお人々よ。神の取り分を不忠実に扱うな。また、神の許可なしにそれを処分するな。このように、神の命令は諸々の聖なる書簡で、そしてこの崇高なる聖典にて確立された。神とに対して不忠義なる者は、正義にかけて自ら不忠義と出会うことになる。しかし、神の命令に応じて行動する者は、御仁慈深き方、授け給う御方、寛大なる御方、日の老いたる者である己の主の恩恵の天より祝福を受ける。まことに主は汝のために、汝の知識を越えるものを意図し給うたのである。しかし、それはこの飛ぶが如くに過ぎ去る人生の後、汝らの魂が天へ飛んで行き、汝らの現世的喜びの装飾品が巻き上げられた後に、汝らに知らされるのである。保護されし書簡を所有する御方は、このように汝らに勧告し給う。
98眼に見えるもの、見えぬものの主、全ての世界の主なる神から下された法律に関、わが玉座の前に様々な請願が信者らから送られてきた。したがって、われはこの聖なる書簡を啓示し、それを主の法律の纏いでまとわせた。人々が主の命令を守るに。過去数年間、似たような要求がわれのもとへ寄せられたが、われはわが英知において、多くの友人達から手紙が届けられた最近の日々まで、わがペンを保留した。して真実の力を通して、人々の心に生気を与えるものを持って返答した。
99言挙げよ、おお宗教の指導者達よ。現在人々の間に広まっている基準で神の聖典を量るなかれ。なぜなら、聖典そのものが人々の間で確立された誤ることなき秤だかある。地上の諸民族や諸親族が所有するものは、この最も完璧なる秤で量られねばならぬ。一方、その重量はそれ自体の基準で試されなくてはならない。汝ら、それを知っているならば。
100わが愛情ある優しさの眼は、汝について泣き悲しんでいる。なぜなら、汝らは自らが昼夜、そして朝に夕に呼びかげていた御方を認識することができなかったからである。おお人々よ、雪のごとく白い顔と輝かしき心持て、祝福された深紅の地点へと進め。そこでは、サドラトウル・モンタハがこのように叫んでいる。「まことに、全能なる保護者、自力にて存在する者なるわれ以外に、神はいまさぬ。」
101.おお宗教の指導者らよ。汝らのうちで、ビジョンと洞察力においてわれに匹敵す者は誰か。発言と英知においてわれと同等であると主張できるものはどこに見いだせるか。いや、慈悲に満ちたもう、わが主にかけて。地上の全ては過ぎ去っていく。そしてこれが、全能者、敬愛されし御方なる汝らの主の顔なのである。
102.おお人々よ。全ての学識の最高かつ最終の目的は、全ての知識の対象たる御方の認識であるとわれは定めた。しかし、いかに汝ら、自らの学識が暗幕になり、この光曙なる御方から、自らを閉め出していることか。その御方を通して、隠されていたあらゆるものが啓示されたにもかかわらず。この発言の光輝がやってきたその源を発見できたなら、汝らは世界の人々とそれが所有するものを捨てて、栄光の、この最も祝福された座へと近づくであろう。
103.言挙げよ。これこそまことに、母なる書が大切に保管されている天である。汝ら、それを理解するものならば。彼こそは、岩を叫ばせ、聖地の上に昇っていく山上で燃盛る藪にその声を上げさせ、「王国は神のもの、全てのものの最高の主、力に満ちもう御方、愛情深き御方のものである」と、宣言させ給うた御方である。
104.われはいかなる学舎へも通わず、汝らの論文を読むこともなかった。この無教育なる者の言葉に耳を傾けよ。その言葉を通して、彼は汝らを永続させ給う御方なる神もとへ呼びよせている。これは、汝にとって地上の全ての宝よりもよい。汝ら、それを理解するものならば。
105.啓示の天から下されたものを解釈する者、その明白なる意味を歪めた者は、まことに神の荘厳なる言葉を歪めた者であり、明らかなる書を逸した者である。
106.爪を切り、身体を浸たすことができるだけの水で毎週沐浴し、以前より用いていたものを持って自らを清潔にするよう、汝らは命じられている。比類なき御方、御仁慈の御方により汝らに定められしことを、怠慢により違反することなきよう、注意せよ。清潔な水に浸れ。すでに使用された水で沐浴してはならない。ペルシャの大衆沿場に近づかぬよう注意せよ。そのような浴場に行く者は、それに入る前にその悪臭が臭ってくるであろう。そのような所を避けよ、おお人々よ。そして、そのような下昌を、下劣にも受け入れるような者になるな。まことに、それらは不潔と汚染の流しのようなものである。もし汝ら、理解する者ならば。同じく、ペルシャの家の中庭にある悪臭のする貯水池を避けよ。そして清く聖別されたものであれ。まことにわれは、汝らを地上における楽園の顕現として眼にしたい。汝ら、神の好意を得る者らの心も喜ばせるような芳香を放散せよ。沐浴者が水槽に浸かる代わりに、身体に水をかげ洗うならばそれは一層よいことで、そうすれば身体を浸ける必要はなくなる。まことに、主はご自身の面前からの恩恵として、汝らのために生活し易くし給うた。汝ら、真に感謝する者であるように。
107.汝らは、自分の父親の妻との結婚を禁じられている。誠の羞恥心から、われは、男子の主題について取り扱う事を控える。汝ら、慈悲深き御方を畏れよ。おお、世人々よ。わが聖なる書簡において汝らに禁じられている事を犯すな。そして、己の欲望の荒野に、取り乱してさまよう者であるな。
108.いかなる者も、公の眼の前で、道や市場を歩きながら聖句を眩く事を禁ず。いやむしろ、主を賛美せんと欲するなら、この目的のために建てられた場所や、自分の家でする事が相応しい。この方が一層誠実性と信心深さにかなう。このように、わが命令の太陽はわが発言の地平線上に輝きでた。わが命令を守る者であれ。
109.あらゆる者は遺書を書くよう義務づけられている。遺言者は最大名の飾りでこの文書の初頭を飾り、そこで神の啓示の曙における神の単一性について証言し、それから心のままに賞賛を述べるべきである。それが啓示と創造の王国で彼のための遺言となり、最高の保護者、忠実なる方なる彼の主と共にある宝であるために。
110.全てのフィーストは二つの最も偉大なるフィーストと、一対の日に来るもう二の祭典において最高状態に達した。最も偉大なる祭典の一つは、慈悲に満ちたもう方が、全創造界にご自身の最も優れた諸々の御名と最も崇高なる諸々の属性の輝かしき栄光を放った日々であり、もう一つはこの御名の吉報を人類に宣言した者をわれが現させた日である。この御名を通して死者はよみがえり、諸々の天と地にある全てのものは共によせ集められたのである。このように定め給う御方、全知者なる御方によって定められた。
111.バハの月の第一日を迎えた者は幸いである。この日は神がこの偉大なる御名通じて聖別し給うた日である。この目に神より授けられた恩恵を身をもって表す者に祝福あれ。まことに、その彼は、すべての世界を包含する主の寛大さを象徴する行為を通して神に感謝を表す者たちの一人である。言挙げよ。まことに、これはすべての月の王冠であり、その源泉であり、生命の息吹が全創造物に吹きわたる日である。輝きと喜びをもってその日を迎える者の祝福は多大である。まことに、その者は幸福に満ちた者たちのうちに数えられることを、われは証言する。
112.言挙げよ。まことに、この最大祝祭日はもろもろの祝祭日の王である。おお、人よ、神が汝らに授けられた恩恵を思い起こせ。汝らは眠りに落ちていた。その時、見よ!神はその啓示からもたらされる再生の微風で汝らを覚まし、明らかで真っ直ぐな神の道を汝らに知らせたもうたのである。
113.病気の時は有能な医師に頼れ。われは、物質的な手段の使用を排除するものではい。むしろ、神が輝かしい栄光ある大業の黎明の地とされたこのペンにより、物質手段を認めてきたのである。
114.神は以前、各信者に自分の所有物の中から貴重な贈り物をわが玉座の面前に捧げ義務を課された。しかし今、われはその慈悲深い恩寵の印としてこの義務を廃止した。まことに、神は最も寛大におわし、御恵み深き御方であり給う。
115.夜明けに思いを神に向け、神を思い起すことに専念し、許しを請い、マシュレゴ・アズカルに歩みを向け、そこへ入り沈黙のうちに座し、主権者、御力の御方、すてに賛美される御方なる神の聖句に耳を傾ける者に祝福あれ。言挙げよ。マシュレル・アズカルは、わが賛美のために町や村に建てられたすべての建物である。この称は栄光の玉座の面前で定められたものである。汝ら、理解する者であれば。
116.すべてに慈悲深き方の聖句を最も麗しい調べで唱える者らは、天と地の主権も決して比較し得ないものを聖句の中に感知するであろう。彼らは、それらの聖句からわが諸々の世界一一今日、この崇高でうるわしい啓示を通して視力を授けられた者ら以は誰も認めることのできない世界一一の聖なる芳香を嗅ぐであろう。言挙げよ。これらの聖句は、清らかな心を言葉で言い表わすことも、隠嚥でほのめかすこともできないもろもろの精神界に引きつけるであろう。耳を傾ける者らに祝福あれ。
117.おお、わが人々よ。わが創造物の間でわれについて語るためと、わが領土中にわが葉を高揚するために立ち上がった、選ばれたしもべらを援助せよ。まことに、かれらわが慈愛の摂理の天の星であり、全人類へのわが導きのランプである。しかし、ある者の言葉がわが聖なる書簡で下されたことと矛盾するならば、その者はわれに属す者ではない。不実な詐称者に従わないよう留意せよ。これらの書簡は夜明けをもたらし、天と地の間に声を上げた者の印章で飾られている。この確かな把手とわが強大で疑う余地のない大業の綱にしっかりとすがれ。
118.主は望むものには誰であれ、世界の様々な言語を学ぶことを許し給うた。それによりその者が西洋と東洋の至るところで神の大業のメッセージを伝えることができ、また人々の心を活気っけ、朽ちたる骨に生気を与えるために、世界の民族や国民の丘で神について語ることができるようにである。
119.理性を授けられている人間が、その理性を奪ってしまうものを取り込むことは言されない。いやそれどころか、人間は人間の地位にふさわしい態度をもって振る舞わねばならない。そして、すべての不注意で、迷う者の悪行に従うべきではない。
120.汝らの頭を信頼と忠実の栄冠で飾り、心を神の畏れという装いで飾り、舌をまったくの真実さで飾り、身体を礼儀正しさの衣服で飾れ。まことに、これこそが人間の身体にふさわしい飾りである。もし、汝ら熟考する者であれば。おおバハの人々よ、真実なる御方である神への奉仕の綱にすがれ。それにより、汝らの地位が明らかにされ、汝らの名が書かれ保存され、汝らの地位が引き上げられ、そして汝らの遺名が伯存された書簡の中で高められよう。地上の住人らによってこの栄光ある高貴な地位に達することを妨げられないように注意せよ。われは書簡の大半と今この聖なる書簡の中で、汝らに対しこのように勧告した。汝らの神、強力なる方、全てに賢き方なる主の法の昼の星は、この聖なる書簡の頭上から光を放った。
121.わが現存の大海の潮が引き、わが啓示の書が終わったとき、神が意図し給うた弓この古来の根茎より分岐した者に汝らの面を向けよ。
122.人々の心の狭さを考えよ。彼らは自分に害になるものを求め、利するものを捨てる。実に、彼らは遠くさ迷う者らである。ある者らは自由を欲し、自由に振る舞うことに得意になっているのが見られる。そのような者らは無知の深みにいる者らである。
123.自由は最終的には騒乱に至り、その炎は誰も消し得ないであろう。審判者であり、全知者である方はこのように警告したまう。自由の具現とその象徴は獣である。人にふさわしいことは、自分の無知から自分を保護できるような節度に従うことであり、不和をもたらす者から自分を守ることである。自由は人間に礼儀という境界線を超えさせ、その地位の尊厳を侵害させる原因となる。自由は人間を極度の堕落と邪悪の状態に落とす。
124.人類を、自分たちを保護する羊飼いが必要な羊の群れと見なせ。まことに、これは真実であり、疑う余地のない真理である。われは一定の状況のもとでは自由を認めるが、その他の状況においては許すことはない。まことに、われは全知者である。
125.言挙げよ。汝らはこれに気付いてはいないが、真の自由は、わが命令に従うことにある。われが啓示の天より下したことを遵守するならば、人間は間違いなく完全な自由を得るであろう。全創造物にみなぎる神の意志の天から啓示されたものすべも内在する神の目的を理解した者は幸いである。言挙げよ。汝らの益となる自由は、永遠の真理なる神に完全に従う以外にはどこにも見いだすことはできないのである。そして一度その甘さを味わった者は、天と地のすべての主権をもってしても、それを交換することを拒むであろう。
126バヤンの書は、われに問うことを禁じている。今や主はこの禁令を解きたもうた。必要とあらば自由に尋ねられるようにされたのである。しかし、それらは以前の人々が繰り返してきたたわいなき問いであってはならない。神を畏れよ。そ公正なる者であれ。神の大業と神の領土において汝らに益となるようなことを問うがよい。神の哀れみ深い同情の門は天と地に住む全ての者の面前に開らかれたからである。
127神の書で定められた一年間の月の数は19である。これらの月のうち、最初の月は全創造をおおい包むこの御名で飾られた。
128死者を埋葬する際、水晶、硬質で耐性のある石材、または良質で耐久力のある木棺に入れるよう、主は定めたもうた。また、死者の指には文字を刻み込んだ指輪をはめることを定めたもうた。まことに、主は最高の命令者であり、すべてを知りたまう御方である。
129.これらの指輪に刻む文字は男性の場合、「天と地にあるすべてと、その間にある全ては神のものなり。まことに神はすべてを知りたもう」であり、女性の場合は、と地の領土とその間にあるすべては神のものなり。まことに神はすべてにましてであり給う」である。これらの句は以前に啓示されたものであった。しかし、見今や「バヤンの点」は高らかに叫んでいる。「おお、諸々の世界の最愛なる御方子これらの言葉の代わりに、あなたの恩寵深い恵みの芳香が全人類に漂うよう葉を啓示したまえ。われはあなたから発せられたひとつの言葉は、バヤンに示さも全ての言葉に優ることをすべての人に告げた。まことに、あなたは望み通りにする力を持ちたもう。あなたの慈悲の大海のあふれんばかりの恩恵を、あなたのしもべから奪いたまうな。まことに、あなたは限りなき恩恵の御方におわす。」見よ、われの叫びを聞き、今やその望みをかなえた。まことに、彼は最愛なる御方であり、に答えたまう御方である。この瞬間、神から下された次の句が、男女双方の埋葬用の指輪に刻まれるならば、それは故人にとってより良きことである。確かに、われは至上の命令者である。「われは神より来たり、そして神以外のすべてから超脱し、慈悲深き方、憐れみ深き御方なる神の御名にしっかりとすがり、神のもとへ戻れり。」このように、主は自らの面前より恩恵を与えるために、誰であれ思い通り選びたまう。まことに、主は強大と威力の神におわす。
130.さらに、主は死者を五枚の絹または木綿の布で包むように、定めたもうた。財力限られている者は、上のいずれかの布一枚で十分である。全てを知り、すべてに精通し給う御方は、このように定められた。故人の遺体を、町から一時間以上の距離を超えて運ぶことは禁じられている。むしろ、輝く心と平静な気持ちで、近くの場所に埋葬すべきである。
131.神はバヤンで課せられた旅の制限を除きたもうた。まことに、神は全く自由なる御方でありたまう。神は望みのままに為したまい、何事も思い通りに定めたまう。
132.世界の人々よ。諸々の御名の主であり、最大の牢獄の住まいから汝らに宣言する者の呼びかけに耳を傾けよ。「まことに、強力なる者、威力ある者、全てを従わせ者、最も崇高にして、全知者であり、全てに賢き者なるわれの他に神はなし。」まことに、諸々の世界の全能なる統治者なる彼の他に神は存在しない。もし彼がそう望むならば、彼の面前から発せられる言葉ひとつで、全人類を捉らえられるであろう。これの大業を受け入れるにあたり、ためらわぬよう、注意せよ。それは、天上の群勢「諸々の名称」の町の住人が、その御前に頭をたれた大業である。神を畏れ、暗幕で遮られた者たちの一人になるな。わが愛の火でその暗幕を焼きつくし、われが全創造を征したこの御名の威力で虚ろな想像の霧を消散させよ。
133.対をなす聖なる場所の二つの家と、すべてに慈悲深き御方なる汝らの主の玉座が確立された他の場所を高め、賞賛せよ。理解ある心を持ちたまう、すべての人の主は、このように汝らに命じたまう。
134.この世の事柄や関心事ゆえに、強大にして忠実なる御方の命令に従うことを妨げられないよう注意せよ。神が強大な主権をもって自らを顕わされたとき、それを信じなかった者らの疑念によって神から遠ざけられぬように、人類の中に立って不動の精神を持つ者であれ。聖なる書に記録されたことによって、この生ける書である御方に耳を傾けることを妨げられぬよう注意せよ。彼は「まことに、最も卓越した方、すべてに賛美される御方なるわれの他に神はなし」という真理を宣言しているのである。聖なる意志と威力の天から下された御方を公平な目で見るがよい。また、不正な行動をする者らであるなかれ。
135.わが先駆者なる者のペンより、この啓示を称賛して流れ出た次の言葉を想起せ」そして、圧政者らの手がわが生涯を通してわれにもたらしたことを考えよ。まことに、彼らは破滅した者らの中に数えられる。彼はこう述べた。「もし、汝らが、神の言挙げよ。これこそが最も高遠なるお方のペンに吹き込まれた全ての聖典の魂である。そして、わが慈愛の微風と全創造物にみなぎったわが恩恵の甘い香りに心を奪われ以外のすべての創造物は圧倒されたのである。
136. Paragraph 136 is missing
137.おお、バヤンの人々よ。最も慈悲深き御方を畏れ、彼が他の節で啓示されたことを考えよ。彼曰く、「ゲブレとは、まことに神が現わし給う御方のことである。休止するまでは、ゲブレは彼の動きと共に動くのである。」最高の命令者は、この最も偉大なる美について言及したいと望み給うたときにこのように定められた。お々よ、これについて瞑想せよ。そして、過ちの荒野に心をとり乱してさまよう者となるな。汝らの空虚な妄想のゆえに彼を拒否するようなことがあれば、汝らが顔を向けるゲブレはどこにあるというのか。おお不注意なる者らの集まりよ。この句を熟神の面前で公平に判断せよ。それにより、栄光に満ち、最も高遠なる御方なるわのもとに波打つ大海から神秘の真珠を集めることができるように。
138この日、いかなる者もこの啓示において顕わされたこと以外のものにすがってはならない。これが過去において、また未来においての神の定めである。この定め去の使者達の聖典を飾ってきたものである。これは過去において、また未来においの主の勧告である。この勧告は生命の書の序文を飾ってきたものである。もし汝ら、解するものならば。これが、過去において、また未来においての主の命令である。の代りに、恥辱と堕藩を選ばぬよう注意せよ。この日において、神以外のなにもの汝の役に立たない。また、全知者、全てに賢き方なる彼の他には避難の場所もない。われを知った者は全ての望みの目標を知り、われに顔を向けた者は、敬慕の的のすべてに顔を向けたのである。このように聖なる書に記され、全ての世界の主なる神により定められている。わが啓示の句のひとうを読むことは、過去と未来の世代の聖典を読するよりも良いことである。これは慈悲深き御方の言葉である。汝ら、もし聞く耳があれば。言挙げよ。これこそが知識の精髄なのである。汝ら、もし理解できるならば。
139.さらにまた、汝らの考えを捨て、存在物の主なるの神へ顔を向けんがために、他句に啓示されたことについて考慮せよ。彼(バブ)はこう述べた。「バヤンを信じる者以外との結婚は法に反することである。結婚する二人のうち一方のみがこの大業受け入れるならば、相手が改宗するまでは、その者の所有物は相手にとって不法なのとなる。しかしこの法は、われがまことに顕わすであろう御方の大業、もしくはすでに公正に顕わされたものが高揚されたあとにのみ有効となる。これ以前には、汝には思い通りに結婚する自由が与えられている。そうすることにより、汝らが神の業を高揚することができるように。」このように、小夜鳥は全ての慈悲深き方なるらの主を賛美して、天上の枝で麗しい調べで歌った。これに耳を傾ける者は幸いでる。
140.おお、バヤンの人々よ。慈悲の神なる汝らの主にかけて命令す。真理の力によりされたこの言葉を公平なる目で見よ。そして、神の証拠を見ながら、それを退け、定する者らにならないように。まことに、彼らは確実に滅びる者らである。「バヤンの点」は、この句の中で、わが大業がかれ自らの大業にまして崇高なるものであることを明白に述べた。これについては、あらゆる公正で理解力ある心が証言するであろう。この日、汝らはその崇高さを容易に目撃できる。この世俗の世に眼が酔いしれている者らや、来るべき世で屈辱的な懲罰が課せられることになっている者らの他は、もその崇高さを否定することはできない。
141言挙げよ。神の正義にかけて誓う。まことに、われは彼(バブ)の最愛なる者なり。そして今、彼は啓示の天から下されたこれらの句に耳を傾け、今まで汝らが犯してきた悪事を嘆いているのである。神を畏れよ。そして、侵略者と行動を共にするなかれ。言挙げよ。おお人々よ。彼(バハオラ)を信じなくても、少なくとも彼に反抗して立ち上がるようなことはするな。神にかけて誓う。彼に反対して団結する暴虐の大群だけで十分である。
142まことに、この宗教制において、最も高遠なるペンを、その超越した地位と最もかしい美を賛美することの他に動かす必要がないよう、彼(バブ)は一定の法を啓した。しかし、われはわが恩恵を汝らに示したいと望み、真理の力を通してこれらの法を明白に制定し、汝らに遵守させたいことをやわらげた。まことに、彼はして寛容なる御方である。
143.彼(バブ)は以前、神の英知の曙なる御方が語られたことを汝らに知らせた。彼はこう述べた。まことに、彼は真理を語っている。「彼(バハオラ)はいかなるの下でもこう宣言する。『まことに、唯一にして、比類なき御方、全知者、全てに精通する御方なるわれの他に神はなし』」。これこそがこの崇高で独特で、驚くべき啓示だけに神が定められた地位である。これは彼の豊かな恩寵の証拠であり、抵抗し難い命令の印である。もし汝ら、理解する者ならば。これこそが彼の最大名であり、最も高遠なる言葉、彼の最も卓越した称号の曙である。それどころか、さらに彼を通してあらゆる源泉、すべての神の導きの黎明の場が明らかにされるのである。おお人々、よ、まことに下されたことについて熟考せよ。そして、それについて熟慮し、違反する者になるなかれ。
144.全ての宗教の人々と友好と和合をもって交われ。それにより彼らが神の甘美.香を汝らから吸い込むことができるように。人々の間の愚かな無知の炎が汝らをしないよう警戒せよ。全てのものは神から生じ、神に戻って行く。神こそは万泉であり、万物は彼のうちに終わる。
145.持ち主が不在の時には、許可がない限りいかなる家にも入らないよう注意讐いかなる状況においても礼儀正しく振る舞え。そして、強情な者の内に数えられないようにせよ。
146.ザカートの支払を通して、汝らの生計の手段とその他のものを清めよ。聖なの啓示者なる御方はこのようにこの高遠なる書簡に定められた。もし、神の意志的に沿えば、間もなくわれはその査定基準をあらわすであろう。まことに、かれらの知識により、望むことはすべて解説し給う。まことに、かれは全知者であり、全てに賢き御方である。
147.物乞いをすることは不法であり、また物乞いに物を与えることも禁じられて全ての者は自らの生計を立てる義務がある。それができない者については、神の代理人と富裕者らが彼らに適切な供給をする責任がある。神の法と命令に従え。いや汝自身の眼を守るようにそれらを守り、嘆かわしい損失を被る者となるな。
148.論争と争いに関わること、人を叩くこと、またはそれに類似する行為で、人や魂が悲しむようなことを犯すことは神の書において禁じられている。全人類の主なる御方は以前、他の人の悲しみの原因になった者に金19メスガルの罰金を定めたもうた。しかしこの宗教制ではその定めは免除され、汝らは公正な振舞と敬度な言行を示すよう勧告されている。これがこの輝かしい書簡で汝らに命ぜられたことである。自分に望まぬことを他の人に望むな。神を畏れよ。また、傲慢な者ではあるな。汝らはすべて水で創られ、土に戻るであろう。汝らを待っている終わりを熟慮し、圧制者の道を歩むな。聖なるロートの木である御方が、汝らに唱える句に耳を傾けよ。それはまことに、この世と次の世の主なる神により確立したもうた誤りのない秤である。それらを通して人の魂は、啓示の曙である御方に向かって飛翔し、すべての真の信者心は光で満たされる。それが神が汝らに課したもうた法であり、神の聖なる書簡にあられた命令である。歓喜してそれらに従たがえ。なぜなら、そうすることが汝らとって最善のことであるから。もし汝ら、このことを知る者ならば。
149.神の句を毎朝、毎タ唱えよ。それらを怠る者は誰であれ、神の聖約とその証言にする忠誠を怠る者である。この日、これらの聖句から顔を背ける者は誰であれ、神より永遠に顔を背けた者らの一人である。おおわがしもべらよ、皆ことごとく神を畏よ。神の句を大量に読むことや、日夜多くの敬度な行為を重ねることを誇るな。なぜなら、ある者が喜びと輝く心を持って一行の句を唱えるならば、その方が危難の場の救助者におわし、御自力にて存在したまう方なる神の全ての聖なる書をだらだらと読むよりも良いことだからである。疲れたり、気が沈んだりしない程度に聖句を読むようにせよ。汝の魂を疲れさせたり、圧迫させるようなことを課すことなく、むしろ、元気づけ、高揚させるものを課すようにせよ。それにより、汝らの魂が聖句の翼に乗って、神の明白な印の夜明けの地に向かって飛翔できるように。これは汝らを神の方へ近づけるであろう。もし汝ら、理解するものならば。
150.威厳と力の天から下された句を汝らの子供たちに教えよ。全てに慈悲深き方の書簡を、子供たちが、マシュレゴル・アズカルの小部屋で、最もうるわしい調べで唱えることができるようにするために。最も憐れみ深きものというわが御名に対する敬慕の念から生まれた歓喜で満たされた者はだれであれ、いまだ深い眠りにある者らの心津引きつけるような方法で神の句を唱えるであろう。わが御名において、慈悲深き主の言葉から永遠の生命の神秘の美酒を飲み干した者は幸いなり。その御名により、堂々とそびえたつ山のすべては塵と化したのである。
151.汝らは、19年ごとに家の家具を新しいものと取り替えるよう命じられた。この夢ように、全知にして全てを感知する御方は定めたもうた。まことに、彼は汝ら自身と、汝らが所有する物すべてに、洗練を望み給う。神の畏れを無視したり、なおざりにする者にならぬように。常にお許しになる方、最も寛大なる御方なる神は、家具を取り替える資力が不足する者には、これを免除された。
152.夏には、汝らの足を毎日洗い、冬には三日に一度洗うように。
153.誰かが汝に腹を立てているならば、優しさをもって対応せよ。もし誰かが汝をとがめるならば、それに対してとがめることを慎み、その者をそっとして置き、全能なる復讐者、威力と正義の主なる神に信頼を置け。
154説教壇を使うことは禁じられた。汝らに向かって主の句を唱えたいと望む者には、匿人類の主なる神について語れるように台座に座らせよ。汝らが神とその栄光に輝く業の顕示者に対して抱く敬愛のしるしとして、椅子や長椅子に座ることは、神の満し給うところである。
155.賭博と阿片の使用は禁じられた。おお人々よ。その両方を避け、その違反者となるな。人間の身体を不活発にしたり、無気力にして害を及ぼすような物質を使用しないよう注意せよ。まことに、われは汝らの益になることのみを望む。これについて全創造物が証言する。もし汝ら、聞く耳を持つものならば。
156.宴会や祝いの催しに招待されたときは、喜び、晴れやかな気持ちで応えよ。そして、自分の約束を果たす者はだれであれ、非難を受けることはない。今日は、神の英知ある法令のひとつひとつが解説される日である。
157.見よ、「主権の印における大いなる逆転の神秘」は今や明らかにされた。神の援助をうけて、この「高潔なるアレフ」により起こされた「六」を認めた者は幸いである。まことに、その者は真実の信仰をもつ者らの一人である。外見は敬度なる者で顔を背けた者がいかに多くいたことか、また、どれほど多くの不信心な者が「あなたにすべての賛美あれ、おお、諸々の世界の望みである御方よ」と叫びながら、近づいていったことか。まことに、望む者に望み通りに与え、望む者から意のままに差し控える力は神の手中にある。神は心の奥底にある秘密と、侮る者の目くばせに隠されている意味を知りたまう。われは清らかな心を持ってわれに来た、無思慮の権化と思えるいかに多くの者を、わが容認の座に就かせたことか。一方、いかに多くの英知の代弁者を、まったくの正義をもって火に付したことか。まことに、われは審判者なり。彼は「神は思い通りになしたまう」という言葉の顕示者であり、「望むままに定めたまう」という言葉の玉座に留りたまう。
158.このペンの痕跡から、内的な意味の芳香を発見する者に祝福あれ。そのペンの動きにより神の微風が全創造物に漂い来、そのペンの静止により平穏の真髄そのものi存在の世界に現われた。すべてに慈悲深き方、測り知れない恩恵の啓示者に栄光あれ。言挙げよ。彼が不正に耐えた故に、正義が地上に現われ、彼が屈辱を受け入れられ芸故に、神の尊厳が人類の間に輝いた。
159.武器を所持することは、必要不可欠な場合以外、禁じられたが、絹で装うこと許された。主はその恩恵として、以前適用されていた衣服や髭の刈りかたに関する限を除きたもうた。まことに、主は制定者であり、全知者でありたまう。汝の振るいに、健全で、高潔な心が相い入れないようなものがあってはならない。また、汝身を無知なる者たちの遊び道具とするな。ふさわしい行為と称賛に値する人格の衣自らを飾る者は幸いである。そのような者は間違いなく、立派で、卓越した行為をして自分たちの主を援助する者らに数えられる。
160.神の都市や国の発展を促進し、そこに立ち、神から愛されるしもべらの喜びに溢れた語調で神を賛美せよ。まことに、家や町が手やその他の手段で建てられるように、人々の心は舌の力を通して啓発される。われは、すべての目的に対して達成のための手段を定めた。それを利用し、全知にしてすべてに賢き方なる神を信じ、信頼せよ。
161神とそのしるしへの信仰を認め、「神は自らなしたることにおいて問われることなし」ということを認識した者に祝福あれ。神はそのような認識を、すべての信仰その土台の飾りとし給うた。すべての善行の受入れはこの認識に依らねばならない。反抗者たちの畷きによって踏み外すことがないように、汝らの眼をそれに据えよ。
162.かれが太古より禁じてきたことを合法と定め、いつの時代にも合法と見なされてきたことを禁じたとしても、かれの権限についてだれも問う権利は与えられていない。一瞬に満たない時間でさえ、ためらう者は違反者と見なされるべきである。
163この基本的で崇高な真実を認めず、この高遠なる地位に達し損ねた者は、疑いの風によって動揺させられ、不信心者の言葉によって魂を混乱させられるであろう。この原則を認識したものは最も完壁な、確固不動の精神を付与された者となろう。それ想起することによって、すべての崇高なる書簡を飾ったこの最も栄光に満ちた地位に誉れあれ。これが神が汝らに授け給うた教えである。この教えはすべての疑いと戸惑いから汝らを救い、この世と次の世において汝らを救済するであろう。まことに、は常に許す御方、最も恵み深き御方であり給う。かれこそは、「全能者であり、すべてに賢き方なるわれの他に神はなし」と宣言するために、諸々の使者を遣わし、諸の聖典を下した御方である。
164おお、カフとラ(ケルマン)の地よ。まことに、われは汝が神にとって不快な状態にあるのを見る。そして、全知者であり、すべてを知り給う彼の他は誰も知ることできないものが汝から出ているのを見、汝から密かに放射しているものを感知する。われは万物に関する知識をもち、それは輝く書簡に刻まれているのである。汝に降りかったことを悲しむな。間もなく、神は汝の中から大いなる勇気を付与された人々を立ち上がらせるであろう。かれらはわが御名を深い忠誠心をもって賛美するであろう。そのため、彼らは聖職者たちの邪悪な暗示に妨げられることも、疑惑をまく者のみな暗示に制止されることもないであろう。彼らは自らの眼で神を見、自らの命をして神に勝利をもたらすであろう。まことに、かれらは不動の信念をもった者らでる。
165.おお、聖職者たちの集合よ。わが句が下され、わが明らかなしるしが現れたとき、汝らはヴェールの背後にいた。まことに、これは奇妙なことである。汝らはわが御名を賛美するが、すべてに慈悲深き御方なる汝らの主が、しるしと証拠をもって汝らの間に現れたとき、われを認めなかった。われはヴェールを引き裂いた。他のヴェール人々を遮らないように気をつけよ。全人類の主の御名にかけて、虚ろな想像のくさりを引きちぎれ。そして偽る者らであるな。神に向かい、その大業を受け入れたなら、その中で混乱を広げるな。また、神の書を汝らの利己的な欲望をもって計るな。まことに、これは過去においても未来においても神の勧告である。そして、これについて、神の証人たちと選ばれた者たち、それどころか、われらのすべてが厳粛に証言する。
166モハメット・ハサンという名のシェークを想起せよ。かれは当時の最高の学識をもつ聖職者たちの一人であった。真実なる御方が顕示されたとき、この聖職者は、他の聖職者たちと共に彼を否認した。一方、小麦と大麦のふるい手は彼を受け入れ、主に顔を向けた。その聖職者は、自分の考えで自分が神の法律、法令と思いつくことを書き留めることに日夜取り組んだ。しかし、まったく拘束されることなき御方が現れたとき、書き留めた文字のただ一つさえ役に立たなかったのである。もし役に立っていれば、彼は主から愛される人々の顔を照す御顔から面をそむけることはなかったであろう。神が自らを顕示されたときに、汝らが神を信じていれば、人々は彼から顔を背けることはなかったであろうし、また、今日汝らが目撃していることはわれに降りかかることはなかったであろう。
167.いかなる名によっても、すべての名の所有者である御方から遮られないように,気をつけよ。また、いかなる言葉によっても、汝らの間における英知の源泉である神の想起を妨げられないように気をつけよ。おお、聖職者たちの集合よ。神に向かい、その保護を求めよ。そして汝ら自身を、われとわが創造物の間のヴェールとなすな。汝らの主はこのように忠告し、汝らが公正であるように命じ給う。汝らの努力を無に帰すことがないように、また、汝らの陥った苦境に汝ら自身が気付かないままでいことがないようにである。この大業を否定するものは、創造全体の中で、他の主真理を立証し得るのであろうか。宇宙を形成する御方にかけて誓うが、それはありえない。しかも、人々は正にヴェールに包まれているのである。言挙げよ。この大業を通じて証言の昼の星が現れ、証拠の発光体が地上に住むすべてにその輝きを放った。おお、洞察力を備えた人々よ、神を畏れよ。そして、われを信じぬ者らである「予言者」という言葉によって、この最も偉大なる宣言から引き止められないように注意せよ。また、「代理人」という言葉へのいかなる言及によっても、諸々の世を覆い包む神の代理である御方の主権から除外されないよう注意せよ。すべての名は言葉で創造され、すべての事業は彼の抵抗できない、強大で驚くべき大業に依存する。言挙げよ。現代は神の日である。すべての世界の全能なる保護者たる彼自身の他は何も語られることのない日である。これは、汝らの迷信と偶像のすべてを震わした大業である。
168.まことに、われは汝らの間に、神の書を手にして、その中から証拠と論拠しながら自らの主を否認する者を見る。それは他のすべての宗教の信者たちが自分らの聖典中に、危急の場の救助者であり、御自力にて存在する御方を論駁するためにさまざまな理由を探したのと同様である。言挙げよ。真実なる御方なる神がわがある。現存する世界の諸々の聖典もすべての書も文献も、この日においては、この生ける書なしには何も役に立つものはないのであろう。この生ける書は創造の真只中でこう宣言する。「まことに、全知者、すべてに賢き者なるわれの他に神はなし」
169おお、聖職者たちの集合よ。この信教の初期において汝らが否認の原因となったように、国の中で争いの原因にならないよう注意せよ。「王国は、すべての黎明の場である神のものなり」と、小石にさけばせたこの言葉の周りに人々をこのように汝の主は、その恩恵として汝らに忠告したまう。まことに、彼は常に許し給う方、最も寛大なる御方である.
170.カリムを想起せよ。そして、われが彼を神に召したとき、彼はいかに自分の欲望に迫られて、次第に尊大になっていったかを想起せよ。しかも、われは存在の世界において証拠の眼に慰めとなるものと、天と地のすべての住民に対する神の誓約の成就に送った。すべてを所有する御方であり、最も高遠なる御方の恩寵のしるしとしわれはかれに真理を受け入れるように命じた。しかし、彼は顔を背けた。そして、神から下された正義の行為として怒りの天使が彼を捉らえたのである。まこと叱われはこれを目撃した者であった。
171.王国の住民にその音が聞こえるほど激しく、ヴェールを引き裂け。これは過去においても、未来においても神の命令である。命じられたことを守る者に祝福あれ。そして、怠慢なる者に禍あれ。
172.われは確かに神を顕示し、その主権を現す以外にはこの地上の領域に何の目的もたない。われにとって証言者は神だけで十分である。確かにわれは、天の王国においても神の大業を高揚し、その栄光をたたえる以外に何の意図も持たない。われには者は神だけで十分である。高遠なる領土にて、確かにわれは神と、神が下された之を称揚する以外に何の望みも持たない。われには援助者は神だけで十分である。
173.おお汝ら、バハの学識者たちよ。汝らは幸いなり。主にかけて誓う。汝らは最も大なる大海の大波であり、栄光の天空の星であり、天と地の間で翻る勝利の旗である。汝らは人々の間で確固不抜さを顕示する者であり、地上に住むすべての者への神言葉の黎明である。汝らへ顔を向ける者は幸いである。強情な者に禍あれ。今日、悲深き方、主なる神の慈愛の手から永遠の生命の神秘な美酒を飲み干した者はだれであれ、人類の身体で鼓動する動脈のように脈打たねばならない。その者を通じて世とすべての朽ち果てた骨が蘇るように。
174.おお、世界の人々よ。神秘の鳩が、その遍かかなたの目的地であり、その隠され住居を求めて、賛美の聖所から飛び立っとき、聖なる書の中で理解できないことはであれ、この強大な根茎から分岐した彼に尋ねよ。
175.おお、最も高遠なる者のペンよ。諸々の天の創造者なる汝の主に命じられた通り、書簡の上を動き、神聖なる一体性の曙である方が超絶的な唯一性の学舎に向かって進まれた時を語れ。それにより、清らかな心を持つ者がヴェールの背後に隠されている全能者・全知者なる汝の主の神秘を、たとえそれが針の目ほどの大きさであろうとも一見できるように。言挙げよ。まことに、われはすべての創造物が気付かずにいるとき、内的意味と説明の学舎に入った。われは、慈悲深き御方から下された言葉を見、危急の場の救助者、ご自力にて存在する御方である神の句一一彼(バブ)がわれに提示した句一一を受け入れ、彼がその書簡の中で厳粛に確言したことに耳を傾けた。われはこのことを確かに見た。そして、われはわが命令により、彼の望みを認めたのである。なぜなら、まことにわれは命令する力をもつ者であるから。
176.バヤンの人々よ。まことに、われは汝らがまどろんでいる間、神の学舎に入ったそして、われは汝らが深い眠りに落ちている間、その書簡を熟読した。唯一真の神にかけて誓う。われは汝らが気付かない内に、その書簡が啓示される前に読んだのである。そして、われは汝らがまだ生まれる前、その書について完全な知識を持った。これらの言葉は神の基準ではなく、汝らの基準に合わせて与えられたものである。彼の知識に秘められたことは、このことを立証する。もし、汝らこれを把握する者ならば。また、全能者の舌はこのことを証言する。もし、汝ら理解するものならば。神にかげて誓う。もしわれがヴェールを挙げれば、汝らは唖然とするであろう。
177.全能者とその大業とについて無駄な議論をしないよう留意せよ。なぜなら、見よ,彼は過去、未来を問わず、万物を包含するほどの偉大な啓示を付与されて汝らの間に現れたからである。もし、われが王国の住民の言葉でわが主題を語るならば、このように述べるであろう。「まことに、神は天と地を創造される前に、その学舎を創り給うた。そしてわれは、『存』と『在』という二つの文字が合わされ、結ばれる前にその学舎に入った」。これが、わが王国のわが僕らの言葉である。わが高遠なる領土住民の舌が口に出すであろうことを考えてみよ。なぜなら、われは彼らにわが知識を教え、神の英知に隠されているものを啓示したからである。では、威力と壮大の舌がその栄光に満ちた住居で口にされることを想像して見よ。
178.これは、汝らの虚ろな空想の遊戯具として創られた大業でもなく、愚者や臆病の遊び場として創られた大業でもない。神かけて誓う。これは、洞察と超脱、ヴィヨンと高揚の競技場である。そこでは、慈悲深き御方の勇敢なる騎手一存在の世鼻のすべての愛着を断った騎手一の他はだれも進撃の拍車をかけることはできない。ことに、彼らは地上で神に勝利をもたらす者らであり、人類の間における彼の至高なる威力の黎明の場である。
179.バヤンに啓示されたいかなることによっても、最も憐れみ深き御方なる汝らより汝らが遠ざけられないよう注意せよ。バヤンはわが賛美を讃える目的のためにのみ下された。このことについては、神がわが証人である。汝らそれを知り得たならば。清らかな心の持ち主は、その中に、我が愛の芳香のみ、目に見えるもの、見えざるのすべてを覆い包むわが名のみを見いだすであろう。言挙げよ。おお、人々よ。最も高遠なるペンより生みだされるものに顔を向けよ。汝らが、それより神の芳吸い込んだならば、彼に反対したり、彼の慈悲深い恩恵と、さまざまな賜物の分を拒んだりするな。汝らの主はこのように忠告し給う。まことに、彼は助言者で全知者である。
180.バヤンの中で理解できないことは何であれ、汝らの主であり、汝らの祖先のある神に聞くがよい。もし、彼がそれを望まれるならば、彼はその中に啓示されたことを解説し、その言葉の大海に隠されている神の知識と英知の真珠を汝らに明らされるであろう。まことに、彼はすべての名にまして崇高であり給う。危急の場の救助者、ご自力にて存在する御方である彼の他に神はなし。
181.世の中の平衡状態は、この最も偉大な、この新しい世界秩序の震えんばかりの影力によってくつがえされたのである。人類の整然とした生活は、人間の眼がこれまでに決して見たことのない、この二つとない素晴らしい制度の力によって大改革されたのである。
182.汝らがその秘密を解き、深い所に隠されている知恵の真珠を残らず発見できるように、わが言葉の大洋に身を沈めよ。神の威力の可能性を示し、神の主権を確立したこの大業の真実を奉じる汝らの決意にぐらつきがないよう注意せよ。喜びに輝く顔をもって、汝ら神の下に急げ。これこそは過去においても、未来においても、神の永遠して不変の教えである。求める者にはそれが得られんことを。また、それを求めることを拒む者については、まことに神は創造物を必要とすることを全く超越し、自ら満ち足り給う者である。
183.言挙げよ。これこそが神の御手に握られた誤りのない秤である。天上地上のすべてのものはこの秤にかけられ、その運命が決定されるのである。おお、汝らこの真理を認め、信ずる者ならば。言挙げよ。これは最も偉大なる証言である。それにより、もろもろの時代を通じてすべての証拠の真実性が立証された。もし、汝らそれについ て確信するものならば。言挙げよ。これにより貧しい者は富み、学識者は啓発され、また探求者は神の御前に上がることができたのである。汝ら、これを自分たちの間の不和の原因にせぬよう注意せよ。強大にして慈悲深き主の大業の中にあって、不動の山のようにしっかりと定住せよ。
184.言挙げよ。おお、誤りの源泉よ。汝の強情な盲目を捨て、人々の間で真理を語れ。神かけて誓う。われは汝が自分の利己的な情熱に従い、汝を創造し、存在させ給うた方を否認したのを見て汝のために涙を流した。汝の主の優しき慈悲を思い、汝が大業に奉仕できるよう、いかにわれが日夜汝を養育したか思い起こせ。神を畏れ、真に悔い改める者であれ。汝の地位について人々が混乱していたことは認めるとしても、汝自身も同様に混乱していたのであろうか。主の御前で震え、汝がわが王座の前に立ち、われが汝に口述した句――全能なる保護者、威力と強大の主である神が下し給うた、句――を書き取った時期を思い出せ。汝の厚かましさの劫火のために、神の聖なる宮廷に入ることを妨げられないよう注意せよ。彼に顔を向け、汝がなした行動を恐れるな。まことに、彼は彼よりの恩恵として、だれであれ御自分の思い通りに許し給う。常に許し給い、すべてに恩寵深き御方なる彼の他に神はなし。われは神のためにのみ、汝に忠告する。もし汝この勧告を受け入れるならば、それは汝自身のためであるが、もし汝これを拒否するなら、まことに、汝の主は汝と明らかな妄想で汝に従った者らすべてを不要となし給う。見よ、神は汝を迷わした者を捉らえ給うた。謙虚に、従順に、誹遜をもって神に戻れ。まことに、彼は汝の罪を取り除き給う。なぜなら、汝の主は閲違いなく、許す御方、威力ある御方、すべてに慈悲深き御方であり給うからである。
185.これは神の勧告である。汝らこれに留意する者ならば。これは神の恩恵である。犀ら、これを受け入れる者ならば。これは神の言葉である。汝ら、これを把握する者ならば。これは神の宝物である。汝ら、これを理解する者ならば。
186.これはこの世に対する永遠なる御方のランプであり、地上の人々の間にあって彼の真っ直ぐで迷わぬ道となった書である。言挙げよ。これは神聖なる知識の夜明けである。もし汝ら、理解する者ならば。またこれは神の命令の発祥地である。もし汝ら、把握する者ならば。
187.動物が耐え得る以上の重荷をそれに負わせるな。まことに、われはその書の中でf最も拘束力ある禁令によってそのような扱いを禁じた。汝ら、全創造物の内にあって正義と公正を体現する者であれ。
188.ある者が心にもなく他人の生命を奪ったならば、その者は遺族に100メスガル金を賠償金として払わねばならない。この書簡に定められたことを守り、その限界を踏み越える者らとなるな。
189.世界中の議会のメンバーよ。地上のすべての人によって用いられる言語を一つ選び、同様に共通の文字を採用せよ。まことに、神は汝らに益になることを明らかにし、汝らが他のものから独立できるようにした。まことに、彼は最も恵み深き御方、全者、すべてを知る御方である。これは和合をもたらすものとなるであろう。汝ら、このことを把握する者ならば。これは調和と文明を促進するための最大の手段となる。汝ら、これを理解する者ならば。われは人類の成熟期の到来を証すものとして二つしるしを定めた。第一は最も堅固な土台で、これは他の幾つかのわが書簡に書きた。一方、第二はこの驚くべき書に記された。
190.阿片を吸うことは禁じられてきた。まことに、われはその書中のもっとも拘束力ある禁令によりこの悪習を禁じた。阿片を吸うものは決してわれに属する者では神を畏れよ、おお、理解力を授けられた者らよ。
Bahá'u'lláh
1
質問:最大の祝祭について
答え:最大の祝祭は、バヤン暦の1年の2ヵ月目の13日の午後遅く始まる。この祝祭の第1日目、第9日目、第12日目には仕事は禁じられている。
2.質問:対をなす誕生日の祝祭に関して
答え:アブハの美(バハオラ)の生誕はモハラム月(イスラム太陰暦の最初の月)の第2日目の夜明け時であった。彼の先駆者は同じ月の第1日目に生誕した。これらの二つの日は神の目には一つと見なされる。
3.質問:結婚の誓いについて(アラビア語では男性と女性の近いの言葉が異なる)
答え:男性は「まことに、私たちは神の御意志に従います」と誓い、女性は「まことに、私たちは神の御意志に従います」と誓う。
4.質問:男性が帰宅の時期を明確にせずに旅にでた場合、つまり予定不在期間を知らせなかった場合で、その後も彼から何の便りもなく、行方がまったく分らない場合は、彼の妻はどう対処すべきか
答え:これに関するケタベ・アグダスの規定を知りながら、帰宅の時を定めることを怠った場合、妻は丸一年待って、その後は賞賛に値する道をとるか、別の夫を選ぶかは自由である。しかし夫がこの規定を知らない場合は、神が賢くも彼の運命を明らかにされる時まで忍耐強く待つべきである。これに関して賞賛に値する道という意味は、忍耐強くあることである。
5.質問:次の聖句について。「まだ生まれていない子らの叫びを聞いたとき子供の分け前を二倍にし、残りの分け前を減らした」
答え:神の書によれば、故人の財産は2,520の分け前に分けられる。この数は9までのすべての整数の最小公倍数であり、これらの分け前は7つの部分に分けられ、各部分はその書に述べられている通り、それぞれの範晴に属する相続人に配分される。たとえぱ、子供たちには60の分け前が9ブロックで、合計540から成る分け前が配分される。「われは彼らの分け前を二倍にした」という句の意味は、このように子供たちは60の分け前を更にあと9ブロック受け取ることで、全部で18ブロック受ける権利を与えられたのである。彼らが受け取る余分の分け前は、との範晴に属する相続人の分から差し引かれたものである。たとえば、配偶者は60の分け前の8ブロックである。「480の分け前を含む8つの部分」を受け取る権利があると啓示されているが、今この再整理により、全部で90の分け前を含む1.5が配偶者の分から差し引かれ、子供たちに再配分された。たの範嗜の場合も同様である。結果は、差し引かれた合計は9ブロックの分け前に相当し、それが子供たちに配分されることになる。
6.質問:兄弟が遺産の分け前を相続する権利をもつためには、故人と同じ父親と母親から生まれていなければならないかどうか。または片親だけが同じであれば十分であるかどうか。
答え:もしその兄弟が同じ父親をもっのであれば、彼はその書に規定されている方法で遺産の分け前を受け取れる。しかし、母親だけが同じである場合、彼はその権利の3分の2だけを受け取り、残りの3分の1は正義院に帰属することになる。この決定は姉妹にも適応される。
7.質問:遺産相続に関する規定の中で、もし故人が子孫を残さなかった場合、彼らの財産の分け前は正義院に帰属すると定められた。同様に父、母、兄弟、姉妹や教師といった相続人が不在の場合は、彼らの財産の分け前は正義院に帰属するのか、または他の方法で処理されるのであろうか。
答え:この聖なる句で十分である。彼はこう述べ給う。その言葉は高遠なり。「故人に子供がない場合、子供の分け前は正義院に帰属する」云々とあり、また故人が子供を残している場合、しかし聖典で規定されている他の部類の相続人がいない場合、子供は遺産の3分の2を受け取り、残りの3分の1は正義院に帰属する。この規定は全般的なもの、および特定なものに適応される。つまり、後者の範晴に属する相続人がない場合、彼らの遺産相続の3分の2は子孫に渡され、残りは正義院に帰属する。
88.質問:ホゴゴラが支払われるべき基本額について.
答え:ホゴゴラが支払われるべき基本額は金19ミスガルである。換言すれば、この価値に相当するお金が入ったなら、ホグクを支払うことになる。同様に、他の形の財産の、数ではなく、価値が述べられた額に達したならホグクを払うことができる。ホゴゴラは一つにつき一度支払うだけでよい。たとえば、1000ミスガルの金を取得し、これに対してホグクを払った人は、商売などでこれを売ることによって生じた利益に関するもの以外には、これ以上支払いをする必要はない。これが値上がりし、その利益が上述の額に達した場合には、人は神が定められたことを実行しなければならない。持ち主が変ったときは、その物に対するホグクの支払いは、再度最初のときの原則にそって行われる。「最初の点」は、ホゴゴラは人の所有するすべてのものの価値について支払われると指定したが、この最も強大なる宗教制では、われは生活や居住の必要をまかなうような生活必需品をこの対象より除いた。
99.質問:故人のホゴゴラ、負債、葬儀と埋葬費の支払いの内どれを優先すべきか
答え:葬儀と埋葬費の支払いが優先する。それから負債を払い、その後ホゴゴラを支払う。もし故人の財産でその負債を清算しきれない場合、その者の不動産の残りはその大きさにあわせて負債清算に当てられるべきである。
10.質問:ケタベ・アグダスでは剃髪を禁じているが、ハッジの書簡では剃るようにとあるのはなぜか。
答え:人は皆、ケタベ・アグダスに従うように命じられている。その書に啓示されたことは何であれ、しもべのための神の法である。聖なる家への巡礼の為に剃髪すべきという命令は解かれた。
11.質問:待機期間中に夫婦間で肉体関係をもち、その後再び仲たがいをした場合、待機期間をやり直すのか、それともその関係をもった以前の期間を待機期間に数えてよいか。また離婚が成立した後も一定期間待つ必要があるか。
答え:待機期間中に夫婦間で愛情が蘇ったときは、結婚の絆は有効であり、神の書で命じられたことに従わねばならない。しかし、一たび1年間の待機期間が終わり、神によって定められたことが実施されれば、それ以上待つ必要はない。1年間の待機期間中は夫婦間の肉体関係は禁じられている。これを犯す者は神の許しを乞い、罰として19メスガルの金を正義院に納めなければならない。
12.質問:結婚の誓いが読まれ、結納金が支払われた後に悪感情が生じてきた場合、1年間の待機期間を経ないで離婚できるか。答え:結婚の誓いが読まれ、結納金が支払われた後、正当に離婚を求めることができるが、それは、結婚が完成する前でなければならない。その場合、1年間の待機期間を守る必要はない。しかし結納金の返還は許されない。
13.質問:双方の両親の承認を得ることは結婚の必要条件であるのか。または、一方の両親だけの承認で十分であるのか。この法律は処女だけに当てはまるのか、それとも他の者にも同様に当てはめられるのか。
答え:結婚の条件として双方の両親の承認が必要である。この点において新婦が処女であるかどうかは関係ない。
14.質問:信者は必須の祈りを唱える時にゲブレー(崇拝の点)の方向に顔を向けるよう命じられているが、他の祈りや勤行の時はどの方向に向くべきか。
答え:ゲブレーに顔を向けることは必須の祈りを唱える時の必要条件であるが、他の祈りをする時は、慈悲深き主がコーランの中で啓示された「どの方向を向いても、神の御顔がある」という言葉に従ってよい。
15.質問:夜明け時にマシュレゴル・アズカル(礼拝堂)で神を想うことに関して
答え:「夜明け時」という言葉は神の書に用いられているが、一日の夜明けが始まったばかりの時、夜明けと日の出の間、あるいは日の出の後2時間以内でも神は満足し給う。
16.質問:遺体は一時間以上かかる所へ運ぶべきでないという法令は、陸路と海路の輸送の双方に適用されるのか
答え:この指示は汽船で一時間かかっても、列車で一時間かかっても海路と陸路の双方による距離に適用されるものである。意図は、いかなる輸送手段であれ、一時間で行ける距離ということである。しかしながら、埋葬は早ければ早いほどふさわしく、支持されるべきことである。
17.質問:遺失物はどう処理されるべきか
答え:町の中で遺失物が見つかった場合は、町の広報係が一度その発見を告知しなければならない。その遺失物の所有者が見つかればその人に渡すべきである。所有者が見つからない場合は遺失物の発見者は一年間待つべきである。もしその期間内に所有者が明らかになれば、発見者はその人から広報係に払う代金を受け取り、遺失物をその人に返すべきである。所有者不明のまま一年間が過ぎた場合にのみ、発見者はその遺失物を自分の所有物としてよい。もし遺失物の価値が広報係に払う代金よりも低いか、または同じ場合、発見者は発見時から一日待つべきである。一日の終わりに所有者が明らかにならない場合、発見者はそれを所有してよい。人の住んでいない所で遺失物が見つかった場合、発見者は三日間待ち、その期間が過ぎても所有者が不明の場合、発見者がその発見物を所有することは自由である。
188.質問:洗浄に関して。たとえば、全身を洗ったばかりの時でも、改めて洗浄を行う必要があるのか。
答え:いかなる場合でも、洗浄に関する規定は守らねばならない。
199.質問:人が自国から外国に移住する計画を立てたが、その人の妻がそれに反対し、意見の相違から離婚になった場合に、旅の準備に一年を要したとするとこの期間は一年間の待機期間と見なされるか、夫婦が別れた日が待機期間の始まりとなるのか。答え:計算の起点は夫婦が別れた日である。従って、もし夫の出発前に一年間別居していれば、そしてもし夫婦間に愛情の芳香が蘇らなければ、離婚してよい。そうでなければ、夫の出発日から計算されなければならず、ケタベ・アグダスに述べられている条件を守らなければならない。
20.質問:宗教上の義務に関する成人の年齢について
答え:成人の年齢は男女共に15才である。
21.質問:次の聖なる句について。「旅行中、もし汝ら安全な場所に止って休むならば、男性も女性も同じように、捧げていない必須の祈りの数に対して、一度ひれ伏し、…・」
答え:このひれ伏すことは、旅行中、安全でない状況のために行わなかった必須の祈りを償うためである。もし旅行者が祈る時間に安全な場所に休むことができれば、その祈りをすべきである。償いの平伏に関する規定は在宅中と旅行中のいずれにも適用される。
22.質問:旅行の定義に関して
‡(注)これは断食が免除される旅行の最低期間に関するものである
答え:旅行の定義は時計の時間で9時間である。旅行者がある場所に止り、バヤン暦で1ヵ月以上そこに留る予定ならばその人は断食を守らねばならない。しかし、1ヵ月以下ならば断食は免除される。もしその人が、断食期間中にある場所に到着し、バヤン暦の1ヵ月間そこに滞在する場合、3日が過ぎるまで断食すべきではないが、その後は断食の期間が終わるまで断食すべきである。しかしもし、自分の居所に帰ったのなら、到着した次の日から断食を始めなければならない。
23.質問:姦夫と姦婦の罰について
答え:最初の違反には9メスガル、2回目は18、3回目は36を支払うべきである。このように、その後に続く罰金はその前の罰金の二倍となっていく。1メスガルの重さは、バヤンの明示によれば19ナホドに等しい。
24.質問:狩猟に関して
答え:彼はこう述べ給う。彼は高遠なり。「もし汝ら、捕獲用の動物や鳥を使って狩猟をするならば」とあるが、他の手段、つまり、弓矢や、銃、および狩に用いられる装置の様な手段も含む。しかしながら、もし罠や落とし穴が用いられ、それにかかった獲物を取る前に獲物が死んだ場合、それを食すことは違法である。
25.質問:巡礼について
答え:二つの聖なる家の一つに巡礼することは義務である。しかし、どちらの家に行くかは巡礼者が決めることである。
26.質問:結納金について
答え:結納金に関して述べると、最低の基準に満足せよという意味は19メスガルの銀である。
27.質問:次の聖句に関して。「しかし、もし、夫の死や殺害の知らせが届き、・・」
答え:「定められた月数」の間待つということは、9ヵ月を意味する。
288.質問:教師が受け取る遺産の分け前に関する、再度の質問について
答え:もし教師が死亡した場合、遺産の分け前の3分の1は正義院に帰属し、残りの3分の2は、教師の子孫にではなく、遺産を遺した故人の子孫に分配される。
299.質問:巡礼に関する再度の質問
答え:男子に課せられている聖なる家への巡礼というのは、バグダッドにある最も偉大なる家とシラズの最初の点の家の双方を意味する。これらの家のどちらかに巡礼することで十分である。従って、自分の住んでいる場所から近い方の家に巡礼することができる。
30.質問:次の句に関して。「女中を雇いたい者は、礼節をもってそうすることができる。」
答え:これは、老若を問わず、賃金と引き換えになされる全ての召し使いの仕事と同様の奉公を指す。その女性は自分の好きな時に自由に夫を選ぶことができる。女性が買われたり、男性が二人以上の妻をもつことは禁じられている。
31.質問:次の聖句について。「妻に三重の離婚を求めるよう定められていた以前の手続きを、主は、…禁止し給うた。」
答え:これは、そう云った女性が前夫と再び結婚できる前に、他の男性と結婚することを必要とした以前の法に言及するものである。この習わしはケタベ・アグダスで禁じられた。
32.質問:対をなす場所にある二つの家と、その他王座が確立された場の保全修復に関して
答え:二つの家というのは、最も偉大なる家と最初の点なる御方の家を意味する。他の場所に関しては、その地域の人々は、王座が確立されたすべての家、またはその内の一つを保存するかどうかを選択することができる。
33.質問:教師の遺産相続について再度出された質問について
答え:もし教師がバハの人々に属さなければ、その人は相続することはできない。数人の教師がいる場合、分け前はそれらの教師全員に均等に分配されねばならない。もし教師が死亡していれば、彼の子孫がその分け前を相続するということはなく、その3分の2は財産の持ち主の子供たちに帰属し、残り3分の1は正義院に帰属する。
34.質問:男の子孫に占有的に割り当てられる住宅に関して
答え:もし幾つかの住宅があれば、それらの住宅の内最も立派で最も高尚なものを意味する。残りの住宅は他の財産と同じく相続人全員の間で分配される。どの相続人の範嗜であろうと、相続人が神の信教の外にいる場合は、その人は存在しないものと見なされ、相続できない。
35.質問:ノー・ルーズに関して
答え:ノー・ルーズの祝祭は太陽が牡羊座の宮に入った日(北半球で春分の日)に行う。たとえその現象が目没前に1分だけであったとしても、それが起こった日に祝う。
36.質問:対をなす誕生日のいずれかの記念日、またはバブの宣言の日の記念日が断食の期間にあたる時はどうすべきか。
答え:対をなす誕生日、またはバブの宣言を祝う祭典が断食の月に当たる時は、それらの祝祭日には断食を行う必要はない。
37.質問:遺産相続を決定する聖なる法令では、故人の住居と衣服は男の子孫に割り当てられている。この規定は父親の所有物のみをさすのか、母親の所有物にも適用されるのか。
答え:母親の使った衣服は娘たちの間で均等に分けられるが、所有地、宝石、および未使用の衣服を含む彼女の残りの財産は、ケダベ・アグタスに述へられている方法で、すべての相続人に分配されるべきである。しかしながら、故人に娘がいない場合、彼女の全財産は聖なる書のなかで男性のために指示されている方法で分配されなければならない。
388.質問:一年の待機期間が経過しなければならない離婚について二人の内一人だけが和解したい場合はどうすべきか
答え:ケタベ・アグダスに述べられた法令によれば、双方ともに満足でなければならない。双方ともに望むのでなければ融和はありえない。
399.質問:結納金に関して。もし新郎が全額を支払えない場合、その代わりに可能な時に払うという理解のもとに、結婚式の時に約束手形を正式に新婦に渡す、場合はどうなるか。
答え:権威の源泉なる御方は、このやり方の採用を許可し給うた。
40.質問:一年の待機期間中に愛情の芳香が蘇ったが、そのあと悪感情が起こったとする。このように夫婦が待機期間を通して愛情と嫌悪の間でぐらつき、悪感情で終わったとすると離婚が成立するか。
答え:いつであれ、悪感情が起こる毎にその日に一年の待機期間が始まり、それから一年間が経過しなければならない。
41.質問:故人の住居と衣服は男の子孫に割り当てられているが、女の子孫とその他の相続人には割り当てられていない。もし故人が男の子孫を残さなかった場合はどうすべきか。
答え:彼は述べ給う。彼は高遠なり。「故人が子孫を残さなかった場合は、その分け前は正義院に帰属する・…」。この聖句に従って、故人の住居と衣服は正義院に帰属する。
42.質問:ホゴゴラの規定がケタベ・アグダスで啓示されている。住居に備え付けの備品や必要な家財道具はホグクの対象になる不動産に含むのか、それとも別にするのか。
答え:イラン語で啓示された法で、われは、この最も強大な宗教制において住居と必要な家具を、除外すると規定した。
43.質問:未成年の女子の婚約に関して
答え:この習わしは、権威の源泉なる御方により違法であると宣告された。また、結婚式の95日以前に結婚を発表することも違法である。
44.質問:もし人が、たとえば100トマン持っていて、これに対してホグクを払ったが、その後取り引きの不成功でその半分を失った、しかし、その後の商売でお金がホグクを支払うほどに儲かった場合、その人はホグクを支払うべきか、どうか。
答え:そのような場合、ホグクは払わない。
45.質問:もしホグクを払った後に、その同じ100トマンを完全に失ってしまった。その後商売や取り引きでまたお金を取り返すことができた場合、再度ホグクは払われるべきか。
答え:このような場合も同様に、’ホグクを支払う必要はない。
46.質問:「神は結婚を汝らのために規定された」という聖句に関して。この規定は義務なのか、どうか。
答え:義務ではない。
47.質問:ある男性がある女性を処女と信じて結婚し、結納金を支払った。しかし、結婚が完成する時に彼女が処女でないことが明らかになった。費用と結納金は返済されるべきか。また、もし結婚が処女であることを条件とした場合、その条件が満たされない場合は、その条件のもとでなされたことは無効となるか、どうか。
答え:そのような場合費用と結納金は返済されてもよい。条件が満たされなかったことで、条件付きでなされたことは無効となる。しかしながら、そのことを隠し、許すことは神の目には恵み深い報酬に値することである。
488.質問:「フィーストは汝らに課せられた…」とあるが、これは義務なのか。
答え:義務ではない。
499.質問:姦通、男色、窃盗に対する罰金と、その度合いに関して答え:これらの罰金の度合いを定めるのは正義院である。
50.質問:自分の親類との結婚が合法であるかどうかに関して
答え:これらの事柄も同様に正義院の信託人たちにかかっている。
51.質問:洗浄についてこのように啓示されている。「洗浄用の水が見つからない者は、『最も純粋に在し、最も純粋にまします神の御名において』という言葉を5回繰り返せ」。厳寒の時期や、顔や手に傷がある時にこの句を唱えることは許されるか。答え:厳寒の時は温かい湯を使用してよい。もし、顔や手に傷があったり、その他の理由で、つまり水の使用が害になるような落痛があるときは、洗浄の代りに定められた句を唱えることができる。
52.質問:徴記の祈りの代りに啓示された句を詠唱することは義務であるか。
答え:義務ではない。
53.質問:遺産相続に関して。同じ両親をもつ兄弟と姉妹がいる場合、異父兄弟と姉妹もまた分け前を受け取れるか。
答え:分け前はない。
54.質問:彼は述べたまう。彼は高遠なり。「故人の息子が、父親の生存中に亡くなり、子供を残している場合、この子供達は神の聖典に規定されているごとく、父親の取り分を相続する…」とあるが、娘が父親の存命中に死亡した場合はどうすればよいか。
答え:彼女の相続分は、アクダスの書の規定にしたがって、7つの範晴の相続人に分配される。
55.質問:もし、故人が女性であれば遺産の「妻」の分け前はだれに配分されるか。
答え:「妻」が受け取る遺産の分け前は、夫に配分される。
56.質問:5枚と定められている遺体に着せる白布に関して。5枚というのは、それまで通常用いられてきた身体に重ねて巻きつける5枚の布であるのか、それとも5枚の全身大の白布のことであるのか。
答え:5枚の白布のことである。
57.質問:啓示されたある句の間にある相違について。
答え:書簡の多くは啓示された後、校正されることも改められることもなく、そのままの形で送付された。その結果、命じられたとおり、それらの書簡は聖なる方の面前でふたたび読み上げられた。そして、大業に反対する者らの揚げ足取りの機先を制するために、人びとが慣習として用いている文法にしたがって直された。もう一つの理由は、先駆者一一彼以外のすべての魂が彼のために捧げられんことを一一によって始められた新しい形式は、文法の規則からはなれてかなり自由に書かれていたからである。それゆえ、聖なる句は、理解しやすく、表現を簡潔にするために、大部分、現代の用法にしたがって啓示された。
588.質問:次の祝福された句に関して。「旅行中に、もし汝ら安全な場所に止って休むならば…、捧げていない「必須の祈り」に対して、一度ひれ伏し」。この必須の祈りの償いは、安全でない状況のゆえなのか、それとも必須の祈りは旅行中は完全に中止するため、その代りにひれ伏すのか
答え:必須の祈りの時間がきても、安全でないため祈りができないときは、安全な環境に達したとき唱えることができなかった各必須の祈りの代りにひれ伏すべきである。最後にひれ伏した後、足を組んで座り、指定された句を読まなければならない。もし、安全な場所があれば、必須の祈りは旅行中でも中止されない。
599.質間:旅行者が止まり、休んだ後、必須の祈りの時間信なったとすれば、その人は必須の祈りをすべきか、それともその代わりにひれ伏すべきか?
答え:安全でない状況にいるとき以外は必須の祈りを抜くことは許されない。
60.質問:必須の祈りを逸したため、何回かのひれ伏しが必要な場合、償いのためのひれ伏し毎に定められた句を繰り返さなければならないのか?
答え:最後のひれ伏しの後に定められた句を唱えることで十分である。幾つかのひれ伏しをするときは、その度に句を繰り返す必要はない。
61.質問:家で必須の祈りを抜かした場合、ひれ伏しで償われるべきか?
答え:以前の質問に答えて次のように書かれた。「この規定は、旅をしているときにも、家にいるとき爬もあてはめられる。」
62.質問:他の目的で洗浄をした後、必須の祈りの時間がきたときはその洗浄で十分か、それともふたたび洗浄すべきかどうか。答え:その洗浄で十分である。ふたたび洗浄する必要はない。
63.質間:ケタベ・アグダスで、正午、午前そして午後に行なわなければならない9つノラーカーから成る必須の祈りが課せられた。しかし、必須の祈りの書簡(現在用いられている三つの必須の祈りが含まれている)はこれと異なるように見えるが。答え:ケタベ・アグダスに啓示されたものは違った必須の祈りに関するものである。何年か前、その必須の祈りを含むいくつかのアクダスの書の法令は、英知のゆえに、別々に記録され、他の聖なる文献と共に送られた。保存と保護のためにそうされたのであった。後で、これらの三つの必須の祈りが啓示された。
64.質間:時間を決めるのに、置時計や腕時計に頼ることは許されるかどうか。
答え:置時計や腕時計に頼ることは許される。
65.質間:必須の祈りの書簡には三つの祈りが啓示されている。これらの三つ全部をする必要があるかどうか。
答え:これらの三つのうち一つを捧げることが課せられている。どの祈りであっても十分である。
66.質問:朝の祈りのための漉浄は、正午の祈りにもまだ効力を有するであろうか。また同様に、正午に行なわれた洗浄は夕方もまだ効力を有するであろうか。
答え:洗浄は必須の祈りのためにするもので、それに関連しているため、祈り毎にしなければならない。
67.質問:長い必須の祈りのとき、起立して、「神に顔を向け」るように求められている。これは、ゲブレ(崇拝の点)に顔を向ける必要はないことを示しているようであるが、そうなのか。
答え:ゲブレ(崇拝の点)を意味する。
688.質問:「毎朝、毎夕神の句を唱えよ」という聖句に関して。
答え:それは、聖なる言葉の天から下されたすべてを意味する。第一に必要なことは、神の言葉を読む聖別された人びとの熱望と愛である。喜びと輝きをもって一つの句を読むこと、または一つの言葉だけを読むことさえも、沢山の書を通読するよりも望ましいことである。
699.質問:ある人が遺書を作成するときに、財産一一ホゴゴラの支払と負債の決済に当てられた後の残りの財産一一の一部を慈善事業に割り当ててもよいか。それとも、残りの財産が神によって定められた方法で指定された範晴の相続人の間で分配されるように、葬式と埋葬の費用に十分な額だけを割り当てるだけの権利をもつのか。
答え:人は自分の財産を完全に管轄する権利をもつ。もし、人がホゴゴラを納めることができ、負債がなければ、遺書の中に記録されたすべてと、それに含まれる宣言や公言はすべて容認されるであろう。まことに、神は、人北与えたもうたものをその人の望む通りの方法で処することを許したもうた。
70.質問:埋葬用の指輪の使用は大人だけに課せられたものであるか、それとも未成年者にも同様に課せられたものか。
答え:大人だけが用いるものである。同様に、死者のための祈りも大人もためである。
71.質問:ある人がアラーの月(高尚の月)以外の時期に断食を望むならば、それは許されるかどうか。またもし、人がその断食に誓いまたは願をかけるならば、それは妥当であり、また容認されることであろうか。
答え:断食の法令はすでに啓示された通りである。しかしながら、もしだれかが願望の実現を求めるために、あるいは他の目的を達成するために、神に断食を捧げるならば、以前も現在もそれは許されることである。しかしながら、誓いや願いは人類の利益になるような目的に向けられることを神は望みたもう。神の栄光は高遠なり
72.質問:住宅と個人の衣服について再び質間が出された。男性の子孫がいない場合は、これらは正義院に帰属するか、または残りの財産と同じく配分されるのであろうか。
答え:住宅と個人の衣服の3分の2は女性の子孫に渡され、3分の1は、神が人びとの宝庫とされた正義院に渡される。
73.質問:一年の忍耐期間を終えたとき、夫が離婿を拒否する場合は、妻はどういう手段をとるべきか。
答え:その期間が終われば離婚が成立する。しかしながら、その期間の始めと終わりを証言する者が必要である。必要が生じたときに、証言してもらうことができるためである。
74.質問:老年の定義に関して。
答え:アラブ人にとっては、極端に年老いたことを指すが、バハの人びとにとっては70才からである。
75.質問:徒歩で旅行する人の断食の限度に関して。
答え:限度は2時間である。もし、それ以上になれば、断食を中断することが許される。
76.質問:断食の月に重労働にたずさわる人の断食の遵守について。答え:その人は断食を免じられる。しかしながら、神の法律と断食の高遠なる地位に尊敬を示すために、質素に、そして人目につかないところで食事を摂ることは非常に称賛すべきであり、ふさわしいことである。
77.質問:必須の祈りのために行なった洗浄は、最大名を95回繰り返すことのためにも十分であるかどうか。
答え:再度の洗浄は必要ではない。
788.質問:夫が妻のために買った衣服や宝石に関して。これらは、彼の死後は、彼の相続人たちの間で分配されるのか、それ占も妻個人のものであるのか。
答え:使用した衣服以外のものは何であれ、宝石であろうがその他のものであろうが、夫に属する。ただし、妻への贈り物であることが証明されているものは別である。
799.質問:ある事柄の証明が二人の公正なる目撃者たちの証言に依存するときの公正の基準に関して。
答え:公正の基準は、人びとの間で評判がよいことである。すべての神のしもべらの証言は、その人の信仰や信条が何であれ、神の王座の面前に受け入れられるのである。
8080.質問:もし、故人がホゴゴラの義務を果たすことも、他の負債を払うこともしていない場合、それは住宅、その人の衣服、残りの財産から均等に差し引いて支払われるべきか。または、住宅と個人の衣服は男性の子孫に取っておき、負債は残りの財産から決済されなければならないであろうか。また、もし財産の残りがその目的には不十分な場合、負債はどのように支払われるべきか。
答え:未払いの負債やホゴゴラの支払は、残りの財産から決済されるべきである’が、もしそのためには不十分な場合は、不足額は彼の住宅と衣服から支払わなければならない。
8181.質問:第三の必須の祈りは座ったままで捧げられるべきか、もしくは起立して捧げられるべきか。
答え:謙虚な畏敬の念をもって起立して捧げられる方が好ましく、またよりふさわしいことである。
8282.質問:第一の必須の祈りに関して「人が謙虚な気持ちと熱烈な敬慕の念にあるときにはいつであれ、行なうこと」とあるが、これは24時間に1回行なうのか、それとももっと頻繁に行なうべきであろうか。
答え:24時間に1回で十分である。これこそ聖なる命令の舌によって述べられたことである。
8383.質問:朝、正午および夕方の定義に関して。
答え:それは日の出、正午、日の入りのことである。許される必須の祈りの時間は朝から正午まで、正午から日没まで、そして日没からその後2時間までの間である。権限は、二つの御名の担い手なる神の手中にある。
8484.質問:信者が信者ではない人と結婚することは許されるかどうか。
答え:嫁に取ることも、嫁に出すことも許される。主は、恵み深さと恩寵の王座に登られたとき、こう定められたもうた。
8585.質問:死者のための祈りは、埋葬に先行すべきか、それともその後に捧げられるべきか。また、ゲブレ(崇拝の点)に同く必要があるかどうか。
答え:この祈りの詠唱は埋葬に先行すべきである。またゲブレ(崇拝の点)についてはこうである。「どの方向に顔を向けても、神の御顔がある。」[コーラン2:115]
8686.質問:正午は必須の祈りの二つ一一短い正午の祈り、および朝と正午と夕方に捧げられる祈り一一を詠唱する時問であるが、この場合、二回洗浄をする必要があるか、それとも一回で十分か。
答え:洗浄の繰り返しは必要ではない。
8787.質問:村の住人たちの結納金は銀であるが、それに関して。それは新婦が村の住人である場合か、それとも新郎の方であるか、または双方の場合であるか。また、一入が都市の住人で、もう一人が村の住人の場合はどうすべきか。
答え:結納金は新郎の住所で決められる。もし、彼が都市の住人ならば、結納金は金で、村の住人ならば銀である。
8888.質問:人が都市の住人であるか、または村の住人であるかを決める基準は何か。もし、都市の住人が村に住み、あるいは村の住人が永住する意図をもって都市に住むならば、どう決めたらよいか。出生の場所が決定要因となるのかどうか。
答え:基準は永住の場所であり、それがどこであるかにより、聖なる書にある指示に従わなければナらならない。
8989.質問:聖なる書簡の中に、ある人が金19ミスガルに相当する取得したなら、その者はこの額についての神の権利を支払うべきと規定されているが、この19のいくらを払うべきか説明してもらえないか?
答え:100の内19が神の規定で設定されている。計算はこの基本に立って行われる。それからその額の19が確定される。
9090.質問:人の資産が19を越えるとき、ホグクが再度払われる前にそれが更に19を上回ることが必要か?
答え:すべて、19の上に加えられたものは、それが更に19に達するまではホグクの対象にはならない。
9191.質問:清らかな水と、それがどの時点で使用された水と見なされるかについて。
答え:1カップまたは2、3カップ位の少量の水は、一回顔と手を洗えば使用済みの水と見なされる。しかし、1コール(約1、5立法メートルの量)またはそれ以上の水は一回や二回の洗顔では変わらず、それを使用することには意義はない。ただし、三ツの面(色、味、匂い)の一つが変わっていたならば、たとえぱ、変色していた場合など、それは使用された水と見なされる。
9292.質問:さまざまな質問に関するペルシャ編の論説で、成人の年齢は15歳と定められている。結婚も同様に成人の年齢に達するのが条件であるかどうか、またはその年齢に達する前に結婚できるかどうか。
答え:神の書には、相互の承諾が必要とされており、また、成人の年齢に達する前は、承諾も不承諾も確認することができないので、したがって、結婚は成人の年齢に達することを条件とし、その年齢前の結婚は許されない。
9393.質問:病人の断食と必須の祈りに関して。
答え:まことに、われは語るが、必須の祈りと断食は神の眼に高遠なる地位を占めるものである。しかしながら、健康な状態にあるときにそれらの徳が実現されるのである。不健康のときはそれらの義務を守ることは許されていない。これがつねに主一一彼の栄光は高遠なり一一の命令であってきた。これに留意し、神の教えを守る男女に祝福あれ。聖句を下したもうた方、疑いの余地のない証拠の啓示者である神にすべての賛美あれ。
9494.質問:モスク、教会、寺院に関して
答え:モスク、教会、寺院のように、唯一真の神の礼拝のために建造されたものは何であれ、神の御名を記念するため以外の目的で使用してはならない。これは神の法令であり、それに違反する者はまことに罪を犯した者である。建造者には害はない。なぜなら、彼は神のためにその行為をし、公正なる報酬を受け取った。そして、今後も受け取りっづけるであろう。
9595.質問:その仕事や職業を行うために必要な商売の場所の認定に関して。それはホゴゴラの対象であるか、それともそれは家財道具として同じ方法で処理されるか?
答え:それらは家財道具と同様に処理される。
9696.質問:他人から預った財産を、価値の低落、または損失から守るために現金またはその他の資産と交換することに関して。
答え:価値の低落または損失から守るために預った財産の交換に関する文書での問い合せについて述べると、そのような交換は、代りになるものの価値が同等であるという条件のもとで容認される。まことに汝らの主は解説者、全知者であり給う。また彼はまことに、日の老いたる者であり給う。
9797.冬と夏の間の足の洗浄について
答え:夏冬共に同じである。温かい湯が好ましいが、冷たい水でも構わない。
9898.質問:離婚に関する更なる質問
答え:神一一その栄光は永遠なり一一は離婚を好まれないので、この問題に関しては何も啓示されていない。しかしながら、別居の始まりから一年が終わるまで二人またはそれ以上の人が証人として報告を受けていなければならない。もし最後まで和解がなければ、離婚となる。このことは正義院の信託者から任命されたその市の宗教上の司法役員によって記録されなければならない。理解力を備えた心の持ち主が悲しまないように、この手順に従うことは不可欠なことである。
9999.質問:協議について
答え:最初に集まった人たちの間の協議が不一致に終わった場合、新しい人々が加えられ、その後に最大名の数、またはそれより少数か、それを越える数の人々がくじで選ばれよう。そこで協議が再開され、その結果が如何なるものであれ、それに従わねばならない。まだ不一致があるときは、再度同じ手順を繰り返し、多数決で決められよう。まことに彼は望む人を正しい道に導き給う。
100.質問:遺産に関して
答え:遺産に関して、最初の点なる御方一一彼以外のすべての人々の魂が彼のために捧げられんことを一一が定めたことは十分に満足のいくことである。生存中の相続人は自分に配分された遺産の分け前を受け取り、その残りに関する報告書を最も高遠なる御方の宮居に提出せねばならない。彼は望みのままに定め給う。これに関して神秘の国(アドリアノープル)である法律が啓示された。それは、正義院が設立されてこれに関する政令が発布される時が来るまで、不在の相続人の遺産は現存する相続人に一時的に与えられるという法律であった。しかしながら、古来の美と同じ年に移住した人たちの遺産はその者らの相続人に与えられた。これは彼らに授けられた神の恩寵である。
101.質間:発見された宝について
答え:宝が発見された時は、その3分の1の権利は発見者にあり、他の3分の2は正義院の紳士たちによってすべての人民の福利のために用いられるべきである。これは正義院の設立後に実施されるであろう。それまでは、各地域と領土に在住する信頼できる人々に託されるであろう。まことに彼は、支配者、制定者、全知者、すべてを知る御方であり給う。
102.質間:利益を生み出さない不動産に対するホグクについて
答え:神の規定は、そこから何の利益を上げることのない、収入をもたらさない不動産はホグクを払うには値しないということである。まことに彼は、統治者、寛大なる御方である。
103.質問:次の聖句に関して。「昼間や夜が長くなる地域では、時計やその他の時間の経過を示す手段で祈りの時間を合せよ。…」
答え:この意味は、遠隔地の領土を意味する。しかしながら、このあたりの気候では、昼夜の長さは2、3時間違うだけである。従って、この規定は当てはまらない。
104.アバ・バディヘの書簡の中で、この聖句が啓示された。「まことにわれは、すべての息子に自分の父に仕えるように課した。」これこそ、わが聖なる書に記された制定である。
105.また、他の書簡の中で次の高遠なる言葉が啓示された。「おおモハメッドよ。日の老いたる者は、その御顔を汝に向け給うた。そして、汝のことを述べ、神の人々に彼らの子供たちを教育するように勧告し給うた。父親が、永遠の王のペンによってケタベ・アグダスに書かれたこの最も重要な命令を怠るならば、彼は父親としての権利を失い、神の面前で有罪と見なされるであろう。主の戒めを心に銘記し、それらにしっかりと縋る者は幸いである。まことに、神はしもべらに、彼らを助け、彼らの利益になり、彼らを神に近づけるようなものを課し給うのである。彼は制定者であり、永遠なる方であり給う。
106.彼は神なり。彼は高遠に在し、尊厳と威力の主であり給う。予言者と選ばれた御方はすべて、唯一真の神一一その栄光に賛美あれ一一に、人間存在の木を高潔さと理解の生きた水で養育するように委任されてきた。それにより、人間の中から神がその内奥の本質に託し給うたものが現れるように。容易に見られるように、各々の木は何らかの果実を生み出し、実を結ばない木は燃やすことしかできない。これらの聖なる教育者が語り、説いたことのすべての目的は、人間の高遠なる地位を維持することであった。神の日に、神の教えをしっかりと握りしめ、その真実で基本的な法律から逸脱しなかった者は幸いである。人間の生命の木に最もふさわしい果実は、信頼に値することと敬神、真実性と誠実である。しかし、神の唯一性一一彼に賛美と栄光あれ一一を認めることに次いで、何よりも重要なことは両親に対して示されるべき当然の権利を顧慮することである。この教えは神の書のすべてに述べられてきた。そして最も高遠なる者のペンによって再確認された。慈悲深き主が、コーランに啓示されたことを考えよ。彼の言葉は高遠なり。「神を崇拝せよ。彼に対等者も類似者も結びつけるな。そして汝らの両親に親切と慈愛を示せ…・」。両親に対する慈愛が、いかに唯一真の神を認めることに結びついてきたかを見よ。真の英知と理解を付与された者ら、神が以前の聖典とこの比類なき驚くべき書簡に啓示されたことを見て、感知する者ら、読んで理解する者ら、守る者らは幸いである。
107.彼一一その言葉は高遠なり一一は書簡の一つの中でこう啓示された。ザカートに関しては、われは汝らがコーランに啓示されたことに従うことを命じた。
Bahá'u'lláh
1
わが衣の甘い香り。¶4
(第4段落の意味。以下¶と数字で、本文中の段落の番号を意味することとする。)
これは、コーランと旧約聖書の中にあるヨセフの話に言及するものである。その話によると、ヨセフの兄弟達がヨセフの衣を彼らの父親であるヤコブに届けた時、ヤコブはその衣を手にして、長い間行方が分からなかった愛する息子のものであることを知った。よい香りのする衣という比喰は、神の顕示者とその啓示を認識することを意味して、バハイの書にしばしば用いられる。バハオラは、ある書簡の中で、自身を、不注意な者らによって極くわずかな値段で売り払われてしまった聖なるヨセフとして描写している。バブは、ガユムール.アスマの中でバハオラを真なるヨセフとして描写し、自分の不実な弟の手が彼にもたらす、忍耐しなければならない苦難について予測している(注釈 190を参照)。同様にショーギ・エフェンディは、アブドル・バハの卓越性により、異母兄弟のミルザ・モハメッド・アリに芽生えた嫉妬心と、ヨセフの優越性が彼の兄弟達の心に火を灯した致命的な妬みとの間に類似点を確認している。
2われは強大と威力の指もて、選り抜きの美酒の栓を開けたのである。¶5
ワインや他のアルコール性飲料は、ケタベ・アグダスにおいて禁止されている(注釈 144, 注釈 170)。ワインを、たとえば精神的桃惚状態にあることなどに寓意的に用いることは、バハオラの啓示だけでなく、聖書やコーラン、古代ヒンズー教の伝承にも見いだせる。たとえば、コーランでは、清廉なる者らは封印をされた選り抜きのワインを飲むと約束されている。バハオラは、いくつかの書簡の中で、ご自身の啓示一一そのじゃこうの香りで満たされた芳香は全創造物の上に漂った一一を選り抜きの美酒と見なしている。バハオラは、この美酒の栓を開け、そうすることによってそれまで知られていなかった精神的真理を明らかにし、それを飲む者らが、聖なる単一性の光輝を感知し、神の諸々の教典の根本的目的を把握することができるようになしたと述べている。バハオラはある瞑想文の中で、次のように神に請願している。「信者達にあなたの慈悲の美酒を供給し給え、そうすればその美酒が、彼らにあなた以外のすべてのものを忘れさせ、あなたの大業に仕えるために立ち上がらせ、あなたへの愛に確固たらしめるであろう。」
3われは...必須の祈りを汝らに命じた。¶6
アラビア語では、祈りを意味する言葉がいくつかある。この文節で用いられている言葉はサラートという言葉であるが、それは特定の部類の祈りを指す。そのような祈りは、一目の特定の時間に唱えるよう信者に義務づけている。この部類の祈りを他のものから区別するため、この言葉は「必須の祈り」と翻訳している。バハオラは、「必須の祈りと断食は、神の眼において崇高なる地位を占める」と述べている(質疑応答 93参照)。アブドル・バハは、そのような祈りは謙虚な心と従順性をもって、神の方へ顔をすえ、神への献身を表現することに役立つとし、また、それらの祈りを通して人は神と交わり、神に近付くことを求め、自身が心から愛する御方と会話し、精神的地位に達する、と述べている。この聖句に言及されている「必須の祈り」(注釈 9)は、後にバハオラによって啓示された三つの「必須の祈り」に取って代えられた(質疑応答 63)。現在使用されている三つの祈りの本文と、その唱え方に関する指示は、この本の「ケタベ・アグダスの補充となるいくつかの補足文」に掲載されている。「質疑と応答」の項目の幾つかは、三つの新しい「必須の祈り」に関するものである。個人はこの三つの「必須の祈り」の内の一つを選ぶことができると、バハオラは明示している(質疑応答 65)。その他の規定については、質疑応答 66、質疑応答 67、質疑応答 81、質疑応答 82で解説されている。「必須の祈り」に関する詳細は、「概要と体系化」の第IV部Aの1から17に要約されている。
4九つの「ラーカー」。¶6
ラーカーとは、啓示された特定の聖句を唱えることを意味する。それらの聖句には、規定れた、脆く動作や他の動作を伴う。当初、バハオラが信奉者らに命じた「必須の祈り」は、九つのラーカーから成っていた。この祈りは紛失してしまったため、その正確な性質やその唱え方に関する特定の指示については知られていない。(注釈 9参照)。アブドル・バハは、現在義務づけられている「必須の祈り」について述べたある書簡で、「必須の祈りの言葉や動作にはすべて、人の理解を越えた、また文字や巻物の収容できない、諸々の暗示や神秘や英知が含まれている」と指摘している。また、ショー一ギ・エフェンディは、バハオラがいくつかの祈りに関して与えている簡単な指示は、精神的意義を有するだけでなく、人が祈り、瞑想するときに十分集中できるように援助するものでもある、と説明している。
注釈 9
5正午と朝と夜に。¶6
現在義務付けられている中位の「必須の祈り」を唱える時間、朝と正午と夜という定義について、バハオラはこれらが日の出、正午、日の入りを指すと述べている(質疑応答 83)。バハオラは、「必須の祈り」を唱える時間は、朝から正午まで、正午から日の入りまで、日の入りから日没後二時間までである、と規定している。さらに、アブドル・バハは、朝唱える「必須の祈り」は、最も早くて、夜明けから唱えることができると述べている。正午を、正午から日の入りまでとして定義することは、中位の「必須の祈り」だけでなく、短い「必須の祈り」を唱える時にも適用される。
6われは....より多くの数を唱えることを免除した。¶6
バブの宗教制や、イスラム教で求められた「必須の祈り」の条件は、ケタベ・アグダスで規定された九つのラーカーから成る「必須の祈り」に関するものよりも厳しかった(注釈 4参照)。バブはバヤンにおいて、19のラカーから成る「必須の祈り」を、24時間内に、すなわち一日の正午から次の日の正午までの間に一度捧げることを規定した。イスラムの祈りは一日に5回、すなわち、早朝、正午、午後、夕方、そして夜遅く、である。祈りを唱える時間によってラーカーの数は異なるが、一日に合計17のラーカーを唱えることになる。
7この祈りを捧げたいと欲するときには、わが最も神聖なる面前の 宮居に向かえ。それは._永久の、請々の都市の住人らのための崇敬の点と...定め給うたこの聖なる地点である。¶6
崇敬の的とは、必須の祈りを捧げるときに礼拝者が向かうべき点であり、それはゲブレと呼ばれている。ゲブレの概念は、過去の宗教にもあった。過去の時代には、エルサレムがゲブレとして定められた。また、モハメッドは、ゲブレをメッカに変更した。アラビア語のバヤンにおけるバブの指示は、次の通りである。「ゲブレとは、まことに神が現わし給うであろう御方のことである。彼が休止するまでは、ゲブレは彼の動きと共に動く。」
この聖句は、バハオラによってケタベ・アグダスに引用されており(第¶137段落)、注釈 7の冒頭で抜粋した文の中で確認されている。またバハオラは、「必須の祈り」を唱えるときゲブレの方を向くことは、定められた条件であると指摘している(質疑応答 14 , 質疑応答 67)。しかし、その他の祈りの時には、各自はいかなる方向に向かおうとも構わない。
8そして真理と発言の太陽が沈んだ後には、われが汝らのために定めた地点へ顔を向けよ。¶6
バハオラは、自分が亡くなった後のゲブレとして、自身が眠る地を定めている。最も神聖なる廟は、アッカのバージにある。アブドル・バハは、その地点を、輝かしい廟、天上の群衆がその周囲を回る場所として描写している。ショーギ・エフェンディは、その代理の書いた手紙で、ゲブレに向かうことの精神的意義について説明するにあたり、太陽の方向へ向かう植物のたとえを用いている。
植物は太陽光線から生命力と成長力を受け取るのですが、ちょうど、植物がその方へ向かうように、私達も祈るとき、神の顕示者であるバハオラの方へ心を向けなければなりません....。私達は...この内なる行為の象徴として、彼のご遺体がこの地上に眠る場所へ...顔を向けるのです。
9われは、「必須の祈り」の詳細を別の書簡に記した。¶8
当初啓示された「必須の祈り」は、いくつかの英知ある理由でバハオラによって別の書簡に記され(質疑応答 63)、バハオラが生存中信者達に公開されることはなかった。そして、現在使われている三つの「必須の祈り」に代えられていた。バハオラの昇天後間もなく、この祈りの原本は、他の多くの書簡と共に、彼の聖約の最大の破壊者であるモハメッド・アリに盗まれた。
10「故人のための祈り」¶8
「故人のための祈り」(「ケタベ・アグダスのいくつかの補足書簡」参照)は、バハイで唯一の、会衆で唱えられる必須の祈りである。それは出席者全員が起立、沈黙し、一人の信者が唱えることになっている(注釈 19参照)。バハオラは、「故人のための祈り」は、故人が大人であるときのみ必須であること(質疑応答 70)、故人の遺体を埋葬する前にそれを唱えるべきであること、そしてこの祈りを唱えるときゲブレに向かう条件はないこと、を明確にしている(質疑応答 85)。「故人のための祈り」のさらに詳しい事柄は、「概要と体系化」の第IV部Aの13-14に要約されている。
11聖句の啓示者である神により、六つの特定の文が規定された。¶8
「故人のための祈り」の一部を構成するいくつかの聖句は、アラホ・アブハ(神は栄光に満ちたもう)という挨拶の言葉を六回繰り返すことから成る。そして、それぞれ一回唱えるたびに、特別に啓示された六つの聖句の一つを19回づつ唱えることを伴う。これらの聖句は、バブがバヤンに啓示した「故人のための祈り」と同一のものである。バハオラは、これらの聖句の前に嘆願の言葉を加えている。
12毛髪は、汝の祈りを無効にはしない。また、精神が去ってしまっているもの、たとえば骨やそれに類似するものも無効にはしない。汝らは、ビーバー・やりリスやその他の動物の毛皮を着ると同じように、黒てんの毛皮を着ることができる。¶9
いくつかの過去の宗教では、ある動物の毛を身にまとうことや、その他の物を身につけると、祈りが無効になると見なされていた。バブはアラビア語のバヤンで、そのようなことが祈りを無効にすることはないと宣言しているが、バハオラはそれをここで確認している。
13われは、成人に達したときから祈りと断食をするよう汝らに命じた。¶10
バハオラは、宗教的義務に関する成年の歳を男女とも十五歳と定義している(質疑応答 20)。断食の期間に関する詳細は、注釈 25を参照のこと。
14神は….病気や高齢のために虚弱な者についてはこの義務を解かれた。¶10
「必須の祈り」を唱えることや、断食から病気や高齢のために虚弱な者らを免除することについては、「質疑と応答」で説明されている。バハオラは、「健康状態が悪いときに、これらの義務を行うことは禁じられている」と指摘している(質疑応答 93)。バハオラは、この状況において、70歳から高齢と定義している(質疑応答 74)。ショーギ・エフェンディはある質問に対して、70歳に達している人達は、虚弱であろうとなかろうと、免除されていると明確にしている。断食からの免除は、他の部類の人にも与えられており、そのリストは「概要と体系化」の第IV部Bの5に掲載されている。追加の説明については、注釈 20、注釈 30、注釈 31を参照のこと。
15神は、清潔な表面ならどこであろうとひれ伏してもよいという許しを汝らに与えたもうた。われはこれに関して、聖典において規定された制限を取り除いたのである。¶10
過去の宗教における祈りの条件には、しばしば、ひれ伏す動作が含まれていた。バブは、アラビア語のバヤンで、ひれ伏すときには額を水晶の表面の上に置くよう、信者らに要求した。同じように、イスラム教でも、イスラム教徒がひれ伏すとき額を置く表面に関していくつかの制限があった。バハオラはそのような規制を廃止し、単に「清潔な表面ならどこであろうと」と規定している。
16洗浄用の水が見つからない者は、「最も純粋に在し、最も純粋にまします神の御名において」という言葉を五回繰り返し、それから祈れ。¶10
必須の祈りをする準備として、信者は洗浄を行うようになっている。それは、手と顔を洗うことから成る。もし水がない場合は、特別に啓示された聖句を五回繰り返すよう規定されている。洗浄に関する一般的な説明については、注釈 34参照。水がない時、洗浄の代わりに行うべき手順の規定に関する過去の宗教の前例は、コーランやアラビア語のバヤンに見い出せる。
17昼間や夜が長くなる地域では、時計やその他の時間の経過を示す手段で祈りの時間を合わせよ。¶10
これは、昼と夜の長さが著しく異なる極端に北部、または南部に位置する地域に関する言及である。(質疑応答 64 , 質疑応答 103)この規定は、断食にも適用される。
18われは、汝らに対し、徴証の祈りを唱える義務を廃棄した。¶11
徴証の祈りは、地震や日食のような目然現象一一それらは恐怖感を引き起こし、神の印や行為と見なされた一一が起きたとき述べるよう定められていたイスラム教の特別な必須の祈りである。この祈りを捧げるという義務は、取り消された。その代わりにバハイは、「支配は神と共にあり、神こそは目に見えるもの、見えぬものの主に在し、創造の主にまします。」と言うことができるが、これは必須ではない。(質疑応答 52)
19.「故人のための祈り」以外の会衆の祈りの慣行を廃棄する。¶12
たとえば、イスラム教の習慣では、モスクでの金曜礼拝は、イマムが先導して行うが、このように、定められた儀式に従って唱える正式な必須の祈りとしての会衆の祈りは、バハイの宗教制では廃止されている。「故人のための祈り」(注釈 1。参照)のみがバハイ法により規定される唯一の会衆の祈りである。これは、出席者のうちの一人が、残りの人の沈黙し、起立した状態にある中で唱える。しかし、この祈りを唱える者に特別な地位が与えられているわけではない。その際、会衆はゲブレの方を向く必要はない(質疑応答 85)。三つの「必須の祈り」は、会衆でではなく、個人で唱えることになっている。その他、多くのバハイの祈りの唱え方には特に規定された方法はない。あらゆる人が、そのような、必須でない祈りを、会合、あるいは個人で好みに合わせて使うことができる。これについては、ショーギ・エフェンデイは、次のように述べている一一
....友らは、このように目分の好みに合わせることができますが...彼らは自分達のやり方が厳格なものになりすぎて、制度化してしまわぬように最大の注意を払わねばなりません。これは、友らが、教えの中に指摘されている明確な道からそれてしまわぬよう、常に銘記しておくべき点です。
20神は、月経の期間中にある女性を「必須の祈り」と断食から免除された。¶13
月経中の女性は「必須の祈り」と断食から免除されている。「必須の祈り」のかわりに洗浄を行い(注釈 34参照)、一日の正午から次の日の正午の間に、「光輝と美の主に在す神に栄光あれ」という聖句を95回、繰り返さねばならない。この規定は、アラピア語のバヤンにも前例があり、そこでは、同じような規定がある。過去の宗教制によっては、月経中の女性は儀武を行うには不潔であるとし、祈りと断食の義務を行うことを禁じていた。この、儀式を行うには不潔であるという概念は、バハオラにより廃止されている(注釈 106参照)。万国正義院は、ある義務や責任を免除するというケタベ・アグダスにおける規定は、言葉が示す如く免除であり、禁止ではないことを明確にしている。したがって、望むならば、自分に適用される免除を執行するかどうか決めることができる。しかし、それを決めるにあたり、万国正義院は、信者は英知を行使し、バハオラがこれらの免除を妥当な理由を持って与えていることを知るべきである、と助言している。規定された「必須の祈り」の免除は、最初は、九つのラカーから成る「必須の祈り」に関するものであったが、現在は、それに取って代わった三つの「必須の祈り」に適用される。
21旅行中に、もし汝ら安全な場所に止まって休むならば、男性も女性も同じように、捧げていない「必須の祈り」の数に対して、一一・度ひれ伏す。¶14
「必須の祈り」の免除は、「必須の祈り」を唱えることができなくなるような危険な状況に置かれている人に適用される。この免除は、旅をしているときにも、家にいるときにもあてはめられる。それは、そのような危険な状態にあるため唱えることができなかった「必須の祈り」を補う手段を提供する。バハオラは、「必須の祈り」を捧げるための安全な場所が見つかれば、旅の間であろうとも、その祈りを中断することはないと明言している(質疑応答 58)。質疑応答 21、質疑応答 58、質疑応答 59、質疑応答 60、質疑応答 61は、この規定についてさらに詳しく述べている。
22ひれ伏す動作を終ったなら、足を組んで.¶14
アラビア語のヘイキャロト・トーヒドと言う表現は、「足を組む」と翻訳されているが、統一の姿勢を意味する。これは伝統的に、あぐらをかいた姿勢を意味している。
23言挙げよ。神は、わが隠されたる愛を宝を開く鍵となし給うた。¶15
神と、その創造に関してイスラムに有名な伝承がある。
われは隠されたる宝であった。われは知られたいと欲し、よって、われ知られんがために創造物を生じさせた。
この伝承に関する言及や暗示は、バハイの書の至るところに見いだせる。たとえば、バハオラはある祈りの中で、こう示している。
あなたの御名に誉れあれ、おお主よ、わが神よ。かつてあなたは、あなたの古来の存在に包まれた、隠された宝であったこと、あなたご自身の本質の中に秘められた、不可解な神秘であったことを私は証言いたします。ご自身を明示したいと欲され、あなたは大世界と小世界を創造され、人間をすべての創造物の頂点として選び給うた。そして、その人間を、両方の世界の印とされた。おお、最も憐れみ深き、われらの主なる御方よ。あなたは、彼を引き上げ、あなたの創造界のすべてのものの前にあるあなたの玉座を占めさせ給いました。あなたは、彼が、あなたの神秘を明かし、あなたの霊感と啓示の光を持って輝くことを、また、あなたの諸々の名と属性を現わすことを可能にし給うた。彼を通して、あなたは創造界の書の序文を飾り給いました。おお、あなたが作り給いし宇宙の支配者なる御方なるあなたよ。(「バハオラの祈りと瞑想」XXXVⅢ)
同じように、「隠されたる言葉」では、バハオラは、こう述べている。
おお人の子よ!われ汝の創造を愛した。さればこそ、われ汝を創った。されば汝、われを愛せよ。われ汝の名を呼び、汝の魂を、生命の生気もて満たし得んがために。
アブドル・バハは、上記の伝承の注釈として、こう書いている。
おお、愛する御方の道における旅人よ。この聖なる伝承の主な目的は、真理の具現者達を通じて、神の隠蔽と顕現の段階を述べることであることを知るがよい。真理の具現者達とは、神の栄光に満ちた存在の黎明の場なる者らである。たとえば、消えることなき火の炎がつけられて顕示される前に、普遍的顕示者の隠されたる正体においてそれはそれ自身で、またそれ自身の中に、存在するのである。これが、隠されたる宝の段階である。そしてその祝福されし樹がそれ自身で、またそれ自身の中で火をつけられるとき、また、あの聖なる火がその本賓により、その本質の中で燃えるとき、これが、「われは知られることを欲した」という段階である。そしてそれが、限りない諸々の聖なる名前と属性をもって、宇宙の地平線から、依存的世界と場所なき世界の上に輝き出るとき、これは、新しく驚くべき創造の出現を成す。そしてこれが、「かくの如く、われは創造物を生じさせた」という段階と一致するのである。そして聖別されし魂らが、全ての現世的愛着と世俗的状態のとばりを引きちぎるとき、また、聖なる存在の美に視線を向ける段階へと急ぎ、顕示者を認める栄誉を受け、心の中で神の最も偉大なる印の光輝を目撃することが可能になるとき、創造の目的である永久の真理なる御方を知ることが顕現されるのである。
24おお、最も高遠なる御方のペンよ。¶16
最も高遠なる御方のペン、至上のペン、最も崇高なるペンはすべて、バハオラを指し、神の言葉の啓示者としてのバハオラの機能を意味する。
25われは、汝らに短期間の断食を命じた...¶16’
断食と「必須の祈り」は、神の啓示された法律を支える二本の柱を成す。バハオラはある書簡の中で、信者らが神に近づく手段として、「必須の祈り」と断食の法律を啓示したことを断言している。ショーギ・エフェンディは、目の出から日の入りまで飲食を完全に控える断食の期間について次のように述べている。
[断食の期間は]....本質的には、祈りと瞑想、精神的回復の期間であり、その間、信者は自身の内面的生活に必要な再調整をし、魂に潜在する精神的力を補給し、活気づけなければなりません。したがって、その意義と目的は根本的に精神的なものです。断食は象徴的であり、利己的・肉欲を控えることを思い起こさせるものです。
断食は、信者が15歳に達すると義務になり、70歳までその義務が続く。断食の法律に関する詳細な規定や、いくつかの部類の人々に与えられる免除に関する規定は、「概要と体系化」第IV部Bの1-6に記されている。断食からの免除に関する解説は注釈 14、注釈 20、注釈 30、注釈 31を参照のこと。19日間にわたる断食の期間は、バハイのアラーの月と一致し、通常3月2日から20日まで。それは閏日の直後に始まり(注釈 27とi注釈 47を参照)、断食の終了後、ノー・ルーズのフィーストにつながる(注釈 26)。
26そして、その終わりにフィーストとしてノー・ルー一ズを定めた。¶16
バブは新しい暦を導入しており、それは現在、バデイ、またはバハイ暦として知られている(注釈 27 注釈 147)。この暦によると、一日の長さは、日の入りから日の入りまでである。バブは、バヤンでアラーの月を断食月と定めている。そして、ノー・ルーズでその期間を終了とし、ノー・ルーズを神の日と定めた。バハオラはバデイ暦を確認し、ノー・ルーズをフィーストと定めた。ノー・ルーズは新年の最初の日である。それは北半球では、春分の日に一致する。春分の日は通常3月21日になる。バハオラは、このフィーストの日は、太陽が雄羊座を通過する日(春期の昼夜の長さが同じになる時=春分煮)一一たとえそれが日の入り一分前に起きても(質疑応答 35)一一にもたれるべきであると説明している。したがって、ノー・ルー・ズは昼夜の長さが同じになる時刻によって、3月の20、21、22日のいずれかになる。バハオラは、多くの法律の詳細を万国正義院が補充するように託している。その中に、バハイ暦に関する多くの事柄がある。守護者は、ノー・ルーズが催される時間に関する法律の世界的な適応については、春分点を決める基準となる堀球上の特定の地点を選ぶ必要性があると述べている。また彼は、この地点の選択は、万国正義院の決定に委託されると指摘している。
27月々を超過する日々を、断食の月の前に置け。¶16
バデイ暦億、365日5時間と5。分余から成る太陽暦の一年に基づいている。一一年は、一一月19日の19ヵ月(計361日)と四つの余分の日(閏年には五日)から成る。バブは、その新しい暦においてどこに閏日が来るかは規定しなかった。ケタベ・アグダスでは、これをアラーの月の直前という固定した位置に来るよう定めることにより、この問題を解決している。さらに詳しい事は、「TheBaha’iWorId」第XV皿巻のバハイ暦に関する部分を参照のこと。
28われは、これらの日を…「ハ」という文字の現われとして定めた。¶16
アヤミ・ハ(「ハの日々」)として知られる閏日は、「ハの文字」と関連づけられるという特異煮を有している。アブジャド法で数えたアラビア文字の「ハ」の数的価値は5であり、これは閏日の最大可能数と一致する。「ハ」という文字は、聖なる書の中でいくつかの精神的意味を与えられており、その一つは、神の本質の象徴としての意味である。
29.自制の時期の前にあるこれらの施しの日々。¶16
バハオラは、これらの日々を祝宴や祝典、慈善行為に捧げるよう信奉者らに命じている。ショーギ・エフェンディが代理により書いた手紙では、こう説明されている。「閏日は、もてなしや贈り物の施しなどのために特別に設けられたものです。」
30旅人....には断食の義務はない。¶16
信者が断食を免除される旅行の最低期間は、バハオラにより定義されている(質疑応答 22、質疑応答 75)。この規定の詳細は、「概要と体系化」第IV部、Bの5a.i-vに要約されている。ショーギ・エフェンディは、旅をする人は断食から免除されてはいるが、望むならば断食することは自由である。また、旅をしている間というのであり、列車や自動車の中にいる間だけではないことを指摘している。
31旅人や病弱者、子供をみごもっている者や授乳中の者にらは断食の義務はない。彼らは、神の恩寵の印として神により免除を受けている。¶16
断食からの免除は、病人や高齢者(注釈 14参照)、月経中の女性(注釈 20参照)、旅人(注釈 30)、妊婦や授乳中の女性が受けている。この免除はさらに、重労働に従事する者にも適用されるが、重労働者は同時に、質素なものを、密かに食べることにより、神の法律と断食の崇高なる地位に敬意を示すよう助言されている(質疑応答 76)。ショーギ・エフェンディは、断食から免除を受ける仕事の種類は万国正義院により定義されることを指摘している。
32日の出から日の入りまで飲食を控え、¶17
これは、断食の期間に関する言及である。アブドル・バハはある書簡の中で、断食が飲食を控えることから成っていると述べた後、さらに喫煙が飲むことの一つの形態であることを指摘している。アラビア語では飲むという動詞は、同等に、喫煙にもあてはまる。
33...神を信じる者はすべて、毎日.「アラホ・アブハ」を95回繰り返すよう定められている。¶18
「アラホ・アブハ」は、「神は栄光に満ち給う御方」という意味のアラビア語の表現である。それは、神の最大名の一つの形態である(注釈 137参照)。イスラムでは、数多い神の名前の中で最も偉大なものが一つあるという伝承がある。しかし、この最大名の正体は隠されていた。バハオラは、最大名はバハであることを確認している。バハという言葉の様々な派生語も、「最大名」として見なされている。ショーギ・エフェンディの秘書はその代理として、次のように書いている。「最大名」はバハオラの名称です。「ヤー・バハオル・アブハ」は、「おお、諸々の栄光の中の栄光なるお方」という意味の呼びかけの言葉です。「アラホ・アブハ」は、「神は栄光に満ちたもう」という意味の挨拶の言葉です。両方ともバハオラに言及しています。「最大名」の意味は、バハオラが神の「最大名」において現れたこと、っまり、彼が神の最高の顕示者である、ということです。
「アラホ・アブハ」という挨拶は、バハオラがアドリアノープルにて追放生活をしているときに導入されたものである。「アラホ・アブハ」を95回繰り返す前には、洗浄を行わねばならない(注釈 34)
34「必須の祈り」を唱える時も...洗浄を実施せよ。¶18
洗浄は、いくつかの祈りと特定の関連がある。それは、三つの「必須の祈り」を捧げる前、毎日「アラホ・アブハ」を95回唱える前、また、月経中の女性が「必須の祈り」と断食の代わりに使う聖句を唱える前である(注釈 2。)。規定の洗浄とは、祈りの準備として手と顔を洗うことを意味する。中位の「必須の祈り」の前の洗浄は、ある聖句を唱えることを伴う(「ケタベ・アグダスの補足書簡を参照」。洗浄が単に洗うという意味を越えた意義を持つということは、「必須の祈り」を唱える直前に入浴していても、なお洗浄する必要がある、ということからも寮しられる(質疑応答 18)。洗浄用の水がないときは、定められた聖句を5回述べなければならない(注釈 16)。これは、水の使用が身体に有害であるときにも適用される(質疑応答 51)。洗浄に関する詳細な法律は、「概要と体系化」の第IV部A.10 a-g、及び「質疑と応答」の項目質疑応答 51、質疑応答 62、質疑応答 66、質疑応答 77,質疑応答 86にある。
35汝らは、殺人を犯すことを禁じられている。¶19
人の命を奪うことの禁止は、ケタベ・アグダスの第73段落で、バハオラにより再度述べられている。計画的殺人に対する罰は規定されている(注釈 86)。過失による殺人の場合も、遺族に定められた慰謝料を払う必要がある(第188段落)。
36姦通を犯すことを禁じられている。¶19
アラビア語のzinaという言葉はここでは「姦通」と訳されているが、姦淫と姦通の両方を意味する。これは、既婚者が配偶者でない者との間にもつ性的関係だけでなく、結婚外の姦通全般にあてはまる。Zinaの一つの意味に、強姦がある。バハオラが規定している罰は、姦淫に対してだけである(注釈 ”)。その他の性的な罪については、万国正義院の決定に託されている。
37陰ロや中傷¶19
陰口、中傷、他人の欠点を執勘に指摘することは、バハオラによって再三にわたりとがめられている。バハオラは「隠されたる言葉」で、「おお実在の子よ!いかにして汝、自身の欠点を忘れ、他の人々の欠点を挙ぐるに急なるを得るや。何人がこれをなすも、わが呪いを受けん。」と明確に述べている。また、「おお人の子よ!汝自身罪人である間は、他人の罪をささやくな。汝この命令に背くならば、呪われん。われこれを証言す。」とも述べている。この強烈な戒めは、バハオラの生涯の最後の書「わが聖約の書」でも、繰り返されている。「まとこにわれは言う。舌は、良きことを述べるためにあるのであり、ふさわしくない話でそれを汚してはならない。神は過ぎたことは許し給うた。これからは、あらゆる者は、相応で適切なことを述べ、中傷やののしりや、人々を悲しませるあらゆることを控えるべきである。」
38我は相続財産を七つの部類に分けた。¶20
バハイの遺産相続の法律は、遺書なしの場合にのみ適応する。バハオラはケタベ・アグダスで、あらゆる信者が遺書を書くように指示している(第109段落)。また、別の箇所でも、人は自分の財産を管轄する権利があり、財産をどのように分配し、それらを、バハイであるなしに関係なく、誰に相続させるかを遺書において定めることができると述べている(質疑応答 69)。これに関して、ショーギ・エフェンディの代理により書かれた手紙では、こう説明されている。
....バハイは、遺書において、自分の財産を自分の望むとおりに処分することが許されてはいますが、道徳的に、また良心的に、常に、次のことを覚えておくことが必要です。っまり、遺書を書きながら、富の社会的機能に関するバハオラの原則を支える必要性、その過度な貯蓄や数人の個人やグループに富が集中することを避ける必要性を守るということです。
このアグダスの書の聖句は、遺産相続仁関するバハイの法律について述べたバハオラの長い説明が導入されることになる。これを読むとき、法律は、故人が男性という仮定で書かれていることを覚えておかなければならないが、それは逆も司である。っまり、女性にもあてはまるのである。故人の財産を七つの部類(子供、配偶者、父親、母親、兄弟、姉妹、教師)に応じて分配するという遺産相続のシステムは、バブのバヤンに規定された規定に基づいている。人が遺書なしに死亡した場合の、遺産相続に関するバハイの法律の主な特徴は、次の通りである。
1 故人が父親で、財産に家が含まれる場合、家は長男に渡される(質疑応答 34)。
2 故人に男の子供がいない場合、家の三分の二は、女の子供に渡され、残りは、正義院に渡される(質疑応答 41、質疑応答 72)。この法律が適応される正義院のレベルについては、注釈 42を参照のこと(注釈 44も参照)。
3 財産の残りは七部類の相続人の間で分配される。それぞれの部類が受け取り割合の詳細については、「質疑と応答」の項目5、および「概要と体系化」のIV.c.3a.参照のこと。
4 各部類に、一人以上の相続人がいる場合、財産はその相続人らの間で均等に分配される。これは、男女の別に関係しない。
5 子供がいない場合、その受取分は正義院に帰属する(質疑応答 7、質疑応答 41)。
6 故人が子供を残し、残りの部類の相続人が一部、あるいは全員不在の場合、その不在の相続人の受取分の三分の二は子供達に渡され、三分の一は正義院に渡される(質疑応答 7)。
7 規定された部類の相続人が存在しない場合、財産の三分の二は故人の甥と姪に渡される。甥や姪もいない場合、その受取分は叔父と叔母に渡される。それもいない場合、甥や姪の息子や娘らに渡される。いずれにしても、残りの分、つまり、三分の一は正義院に渡される。
8 前述した相続人が一人もいない場合、財産の全部が正義院に帰属する。
9 バハオラは、バハイでない者はバハイである親や親族から相続する権利はない、と述べている(質疑応答 34)。ショーギ・エフェンディは、代理による手紙で、こう説明している。この制限は、「バハイが遺書なしに死亡し、財産がアグダスで規定されている規則に応じて分配されなければならないときに限って」適応される。「さもなくば、バハイは、遺書を残して自分の望みを記すならば、宗教に関係なく、いかなる人にも遺産を残すことができます。」よって、バハイは遺書を残すことにより、バハイでない配偶者や子供や親族に、遺産を残すことが司能である。
遺産相続に関するさらに詳しい法律は、「概要と体系化」のIV.c.3a-oに要約されている。
39.兄弟には五分....姉妹には四分¶20
「質疑と応答」は、故人の兄弟姉妹に割り当てられる受取分に関連して、法律の規定内容をさらに詳しく説明する。もし、兄弟または姉妹の父親が、故人と同じ父親であれば、彼らは分配分の全てを受け取る。しかし、父親が異なる場合、彼らは、分配分の三分の二のみを受け取り、三分の一は正義院に帰属する(質疑応答 6)。さらに、故人の相続人の中に親を同じとする兄弟姉妹がいる場合、母親が異なる兄弟姉妹は相続しない(質疑応答 53)。当然、これらの兄弟姉妹も、自分らの父親の財産からはその割当分を受け取る。
40教師¶20
アブドル・バハはある書簡で、子供の精神的教育に携わった教師を、子供に永遠の生を授ける精神的父親に例えている。彼は、神の法律において教師が相続人の中に挙げられている理由はこれである、と述べている。バハオラは、教師がどのような条件で相続するか、また割当分がどれだけかを規定している(質疑応答 33)。
41われは、まだ生まれていない子らの叫びを聞いた時、子供の分け前を二倍にし、残りの分け前を減らした。¶20
バブの遺産相続の法律では、子供らは540株を構成する九分が割り当てられていた。これは、全財産の四分の一以下であった。バハオラは、その割当分を二倍の1080株にし、残り六部類相続人の割当分を減らした。彼はまた、この正確な意味について、さらに、遺産相続配分に関するその意味についても述べている。
42正義院¶21
ケタベ・アグダスで正義院に言及するとき、バハオラは、必ずしも、万国正義院と地方正義院とを明確に区別していない。両方とも、この書の中で定められている機構である。彼は通常、正義院と言及し、それぞれの法律が、将来どのレベルの正義院に適応するものか説明される余地を残している。アブドル・バハは、地方会計の収入について書簡の中で、相続人のいない遺産という項目を挙げており、アグダスが遺産に関するこれらの聖句の中で言及している正義院が、地方のそれであることを指摘する結果になっている。
43故人が子供を残している場合、しかし他の部類の相続人がいない¶22
バハオラはこう明確にしている。「この規則には、一般的適合と特殊な適合の両方がある。っまり、後者の部類に属する相続人がいないとき、その相続人らの配当分の三分の二は、子供らへ渡され、三分の一は、正義院へ渡されることになる」(質疑応答 7)。
44われは、故人の住いや衣服を女ではなく男の子供に割り当てた。そして、その他のいかなる相続人にも割り当てていない。¶25
アブドル・バハはある書簡で、故人の住いと衣服は、男性の子孫の筋に残されると述べている。それらは長男に残され、長男がいない場合、次男に残されるのである。アブドル・バハは、これは長子相続制の表れであると述べている。この制度は神の法律において常に支持されてきた。彼は、ペルシャのある信奉者にこう書いている。「全ての神の宗教制では、長男は並ならぬ特異性を与えられてきた。預言者の地位でさえ、長男の生得の権利であった。」しかし、長男に与えられる特異性には、それに伴う義務がある。たとえば、長男は神のために母親の世話をする、他の相続人の必要事を考慮するという道徳的責任がある。バハオラは、この相続法のこの部分の様々な面について明確にしている。彼は、もし家が一つ以上あるならば、主な、最も重要な家は男性の子孫に渡されると指定している。残りの住居はその他の所有物と一緒に、他の相続人らの間で分配されるのである(質疑応答 34)。また、もし男性の子孫がいない場合、主な住居と衣服の三分の二は女性の子供に相続され、三分の一は正義院に帰属するとも述べている(質疑応答 72)。さらに、故人が女性である場合は、彼女が使った衣服は娘らの間で平等に分配されるべきであると述べている。そして彼女の未使用の衣服や宝石や財産は相続人らの間で分配されねばならず、また、使用済みの衣服も、娘がいない場合には相続人らの間で分配される(質疑応答 37)。
45故人の息子が、父親の生存中になくなり、子供を残している場合、この子供達は神の聖典に規定されているごとく、父親の取り分を相続する。¶26
この部分の法律は、父親または母親よりも早く他界した息子の場合のみにあてはまる。故人の娘が他界しており、子供を残している場合、娘の取り分は、最も聖なる書において規定されている七つの部類に応じて分配されねばならない(質疑応答 54)。
46故人が未成年の子供を残した場合、子供たちの取り分は、信頼できる者に委託されなければならない。¶27
アミンという単語は、この段落では「信頼できる者」と翻訳されている。アラビア語では、主に信頼性という概念に関連して、広い意味を持っているが、信びょう性、忠誠、忠実、清廉、正直、などという意味もある。法的な専門用語では、アミンは信託人、保証人、保管者、保護者、管理者などの意味も有する。
47財産の分割は、ホゴゴラが支払われ、借金が清算され、葬儀と埋葬の費用が支払われてから、行われるべき¶28
バハオラは、これら経費支払の優先順位について、まず最初に葬儀と埋葬の経費、個人の借金の支払、次いでホゴゴラ、とされている(注釈 125)(質疑応答 9)。彼はまた、財産をこれにそって処理するとき、支払は、まず残余財産から払い、もしそれで清算することができない場合、故人の住居や衣服から払うべきであるとも述べている(質疑応答 80)。
48これこそが決して変ることのない隠された知識である。なぜなら、その始まりは九とともにあるから。¶29
アラビア語のバヤンで、バブはその相続の法を、「神の書の隠されたる知識に応じており、その知識とは、変化することも取って代えられることもない知識である」と述べている。また、遺産分配の際の数字は、神が現わし給うたお方を認識する助けになるよう意図されたという意義がある、とも述べている。ここで言及される「九」という数字は、アラビア語の文ではr夕」という文字で表されており、これはアブジャド法のそれに相当するものである(「用語集」参照)。これは、バブによる遺産分配の最初の要素で、そこで彼は、九分を子供の取り分と定めている。九の重要性は、それが最大名、バハ、の数的価値と一致するところにある。これは、「隠され、かつ顕示されたるもの、侵すことも、また近寄ることもできぬほど崇高なる御名」という次の部分で暗示されている。(注釈 33も参照のこと)。
49.主は、あらゆる町に正義院が設立されると定め給うた。¶30
正義院という機構は、選出された顧問により構成され、社会の地方・全国・国際のレベルで機能する。バハオラは、万国正義院と地方正義院の両方をケタベ・アグダスで定めている。アブドル・バハは、その「遺訓」の中で、「二次的(全国または地域)正義院」を規定し、万国正義院選出において取るべき選挙法の概略を述べている。上に引用した聖句では、地方正義院について言及しており、これは、九人またはそれ以上のバハイが居住する地方ならどこでも選出されることになっている。この目的のための大人という言葉の定義は、守護者により一時的に21歳と定められているが、彼は、それは万国正義院により将来変更可能であると述べている。地方及び二次的な正義院は現在、地方及び全国精神行政会という名称で知られているoショーギ・エフェンディは、これは、一時的な名称であると指摘している。
バハイ信教の地位と目標がより良く理解され、もっと十分に認識されるにつれ....は恒久的で、より適切な、正義院という名称に取って代えられるであろう。現在の精神行政会は、将来、違った様式に変わるだけでなく、バハオラの信教が認識されることにより必要になる力や義務や特権が、現在の諸槻能に追加されるであろう。そしてその認識とは、世界の認められた宗教体系の一つとしてだけでなく、独立した主権を有した国教として認識されることを指す。
50「バハ」の数。¶30
「バハ」のアブジャド法による数的価値は九である。万国正義院、全国及び地方精神行政会には、現在、それぞれ九名のメンバーがおり、これはバハオラが規定した最低の数である。
51彼らは、人々の中の慈悲深き御方の信託人となるべきである。¶30
万国正義院、全国及び地方精神行政会の全般的権限と義務、そのメンバーの資格条件は、バハオラとアブドル・バハの書、及びショーギ・エフェンディの手紙と万国正義院の解説文の中に述べてある。これらの機構の主な機能は、万国正義院憲法と全国及び地方精神行政会の憲法に概略が述べてある。
52共に協議し....¶30
バハオラは、協議を、その信教の根本的原則の一つとして確定し、全ての事柄について主に悟議するよう信者らに勧告した。彼は、道を示す導きのランプであり、理解を授けるものとして、協議を描写した。ショーギ・エフニンデイは、協議の原則はバハイ行政秩序の根本的法律の一つをなすと述べている。バハオラは、「質疑と応答」の項目99で、協議方法の概略を述べ、採決時に満場一致に達することの重要性を強調し、もしそれができないときは過半数意見を採ることを指摘した。万国正義院は、この内容は精神行政会が確立される前に啓示されたものであり、これは、協議に関するバハイの教えについての質間への答であったということを明確にしている。万国正義院は、友らは常時、精神行政会に援助を求めることができ、「質疑と応答」に述べられている手順に従うことを禁止されてはいないと述べている。この方法は、友らがもし望むならば、個人的な問題について協議したいときにも使うことができる。
53各地に礼拝堂を建設せよ。¶31
バハイ礼拝堂は、神の賛美のために捧げられている。礼拝堂は、マシレゴル・アズカル(「神の賛美の黎明の場」)の中心的建物をなすが、このマシニレゴル・アズカルは、将来、展開するにつれ、礼拝堂に加えて、社会的・博愛的・教育的・科学的追求のための付属機関を包含することになる。アブドル・バハは、マシュレゴル・アズカルを、世界の最も重要な機構の一つとして描き、ショーギ・エフェンディは、それがバハイの礼拝と奉仕の統合をなすと述べている。この機構が将来発展することを予想してショーギ・エフェンディは、正義院とこれらの付属機関が、苦しんでいる者に安らぎを、貧しい者に糧を、旅人に避難所を、遺族に慰めを与え、無知なる者に教育を施すであろうとみている。将来、バハイの礼拝堂は、あらゆる町や村に建てられるであろう。
54主は、可能な者に対しては神聖なる家へ巡礼することを定めたもうた。¶32
この法の対象には、二つの家が含まれている。シラズのバブの家と、バグダッドのバハオラの家である。バハオラは、これらの家のどちらかに巡礼することによって、この聖句の必要条件を満たすことができれると述べている(質疑応答 25、質疑応答 29)。Suriy-i-Haji(質疑応答 10)として知られている二つの書簡で、バハオラは、これらの巡礼のそれぞれに関する特定の儀式を定めている。この意味では、巡礼は、単にこれらの家を訪問するということ以上のものである。バハオラの昇天後、アブドル・バハは、バージにあるバハオラの廟を巡礼の場所として定めた。アブドル・バハは、「最も神聖なる家、つまりバグダッドの祝福された家と、シラーズにあるバブの崇敬された家は巡礼に捧げられており、もし経済的に可能であり、何の障害もなければ、これらの場所を訪れることは義務である」と、ある書簡で述べている。
55そして、主は、御自身の慈悲としてこの定めから女性を免除された。¶32
バブはバヤンで、経済的に旅のできる信者らは一生に一度、巡礼を行うよう定めた。そして、旅の厳しさから解放するために女性をこの義務から免除すると述べた。バハオラも同じように、女性を巡礼の義務から免除している。万国正義院は、この免除は禁止ではなく、女性は自由に巡礼をすることができると明確にしている。
56何らかの職業に従事すること。¶33
男性も女性も、商いや専門職に従事する義務がある。バハオラは、そのような職業への従事を神への崇拝と同じ地位にまで引き上げている。この法の精神的・実務的意義及びその具体化に対する個人と社会の相互責任は、ショーギ・エフェンディの代理仁よる手紙に、こう説明されている。
信者が何らかの職業に従事するというバハオラの命令に関して。教えはこの点について非常に強調しており、特にアグダスのこの点に関する教えはそうです。それは、働く気のない人は、この世界秩序において居る場所がないということを明確にしています。この原則の結果として、バハオラはさらに、物乞いは反対されるのみでなく、社会から完全になくされるべきであると述べています。何らかの職業に必要な技能を習得する機会を与え、その人自身のためと、生計をたてるための両方の目的のために、そのような技能を利用する手段を与えることは、社会を組織することに携わる人々の義務です。あらゆる人は、いかに障害を持っていても、また制限を受けていても、何らかの仕事や職業に従事する義務を課されています。というのは、バハオラによると、仕事は、特にそれが奉仕の精神でなされたときは、崇拝だからです。それは、実利的な目的があるだけでなく、それ自体に価値があるのです。っまり、それはわれわれを神に近づけ、この世での私達に対する神の目的を、私達がよりよく理解することを可能にするからです。ゆえに、誰も、富の相続によって日々の仕事から解放されることはないというのは明らかです。
アブドル・バハは、ある書簡でこう述べている。もし人が、生計を立てることができず、極貧に苦しめられたり、自分ではどうすることもできない状態であったら、裕福な者、あるいは代理人らが、その人に生活のための月々の費用を供給する義務がある....。代理人らという意味は、人民の代表者、つまり、正義院のメンバー達のことである。(物乞いについては、注釈 162を参照のこと。)バハオラの法では、夫だけでなく、妻や母親に対しても生計のための仕事をするよう要求しているのかという質問に対して、万国正義院は、バハオラの命令は、友らが、自分と他人のために益になるような職業に従事するということであり、家政は社会に根本的な重要性を有する立派で、重要な仕事である、と答えている。一定の年齢に達して仕事から隠退することに関して、ショーギ・エフェンディはその代理による手紙で、こう答えている。「アグダスには、それに関して規定がないので、国際正義院が法律を制定しなければならない事柄です」。
57手に接吻することは聖典において禁止されている。¶34
過去の多くの宗教制及びいくつかの文化においては、宗教的に重要な人物や卓越した人物の手に接吻することは、それらの人々への敬慕の表現、彼らの権威への服従の象徴として期待されていた。バハオラは、手に接吻することを禁じ、書簡の中で、他の人の前で額ずく習慣や、他人との関係において自分を卑下したりするような行動を咎めている。
58他のものから赦免を求めることは誰にも許されない。¶34
バハオラは、人に告白したり、自分の罪の赦免を人に求めることを禁止している。そのかわり、人は、神に許しを請うべきである。ビシャラトの書簡でバハオラは、人々の前でそのように告白することは、人の屈辱と卑下につながる、と述べ、また、神はご自身のしもべらの屈辱を望んではおられない、と断言している。ショーギ・エフェンディはこの禁止の教えを、このような状況で述べている。彼の秘書が代理として書いた手紙には次の様に記されている。
....カトリック教徒が神父に対して行うように、自分の罪や欠点を告白すること、あるいは幾つかの宗派がするように、公の前でそのようなことを行のは禁じられています。しかし、もし人が心から間違いを認めたい時、あるいは性格的な欠点を認めたい時、そしてある人の許し、容赦を求めたいと自然に感じる時には、われわれはそうすることができます。
万国正義院は、罪の告白に関するバハオラの禁止令は、バハイ機構の下で行われる協議の最中に自分自身の違反行為を認めることを妨げるものではないということを明確にしている。同じように、それは、そのような事柄について、親しい友人や職業的なカウンセラーの助言を求める可能性を排除するものでもない。
59.人々の中には、入口のそばで下駄の間に座す一方、心中では栄誉の座を強く欲している者がいる。¶36
伝統的に、東洋では会合に入る時には下駄や靴を脱ぐ習慣があった。部屋の中では入口から最も離れている部分が上座、栄誉の座とされ、出席している人の中で最も卓越した人が座すことになっている。他の者は、地位の高い順に入口の方へ座っていく。入口のそばには靴や下駄が置かれており、最も卑しい者が座す。
60また人々の中には内なる知識を....有していると主張する者がいる。¶36
これは、密教的な知識を有すると称し、そのような知識への愛着のために神の顕示者の啓示から遮られてしまう人々のことである。バハオラは、他のところでもこう述べている。「自分の想像が彫り込んだ偶像を崇拝し、それを内なる実在性と呼ぶ者ら、そのような者らは、まことに、異端者と見なされる」と。
61インドの地に身を隔離し、神が合法的と定めたもうたものを拒否し、禁欲生活や難行・苦行を自らに課し....者らが、何と多くいたことか。¶36
これらの聖句は、修道院生活と苦行を禁止するものである。「概要と体系化」IV.D.Ly.iii-ivを参照のこと。「楽園の言葉」でバハオラは、これらの規定についてさらに詳しく述べている。「隠遁生活や苦行は、神の面前において受け入れられないことである」と。また彼は、そのような生活に関わる者らに、「喜びと輝きをもたらすことを守るがよい」と呼びかけている。さらに、山中の洞窟に住いを持つものら、夜墓地へ行ったりする者らにそれらの習慣を捨てるよう述べている。また彼は、神が人類のために定め給うたこの世の恩恵を自ら奪ってしまわぬように命じている。ビシャラトの書簡では、僧や牧師らの敬けんな行為を認めながらも、バハオラは、彼らに隠遁の生活を諦め、自らの歩みを開かれた世界へ向け、自らと他人との益になるようなことに勤しむよう呼びかけている。彼はまた、神について述べるものを生じさせるために、結婚することを彼らに許可している。
62一千年が完全に経過する前に、自らを神より下された直接の啓示の顕示者と称する者は....¶37
バハオラの宗教制は次の神の顕示者が来るまで続くが、そのような顕示者の到来は少なくとも一千年が完全に経過するまでは起こらないのである。バハオラはこの聖句において、その明らかな意味以外の何ごとも考慮せぬよう警告している。そしてある書簡で、この一千年のそれぞれの年はコーランによると12ヵ月、バヤンでは毎月19日の19ヵ月からなると記している。1852年の10月、テヘランのシア・チャールでバハオラが啓示の暗示を受けた時が、彼の予言者の使命の誕生を意味する。そこでそれはまた、次の神の顕示者が出現するまでに経過しなければならないとされる一千年または、それ以上という計算の始まりを意味する。
63これは、われがイラクに住んでいたとき、その後は神秘の地にいたときに、汝らに出した事前の警告のことである。そして、今は、この輝かしき場所からその警告を出している。¶37
神秘の地はアドリアノープルを指し、この輝かしき場所はアッカを指す。
64人々の中には、学識により傲慢になり、....自分の後ろについてくる下駄の音を聞くと、....その自尊心が大きくなる者がある。¶41
東洋では、宗教的指導者の信奉者らは、その師の一、二歩後ろを歩く習慣があった。
65ニムロデo¶41
この聖句で言及されているニムロデは、ユダヤ教の伝承にも、イスラム教の伝承にも出てくる。ニムロデはアブラハムを迫害した王で、後に傲慢の象徴になった。
66アグサンo¶42
アグサン(Ghusnの複数系)は「枝」という意味のアラビア語である。この言葉は、バハオラが男性の子孫を指して使った。これは、基金の処理をするだけでなく、バハオラ(注釈 145)とアブドル・バハ没後の権限後継者にも特別な意味を有する。バハオラは聖約の書で、長男のアブドル・バハを聖約の中心、及び信教の長に指名した。そしてアブドル・バハは、遺訓で、長孫のショーギ・エフェンディを信教の守護者、かつ長として指名した。ゆえに、アグダスのこの聖句は、選ばれしアグサンの後継を予期しており、守護者の機構と守護者の筋の断絶を予期していることになる。1957年、ショーギ・エフェンディの逝去はこの聖句で言及されている状況をもたらした。つまり、アグサンの筋は、万国正義院が設立される前に途切れてしまったのである(注釈 67)。
67バハの人々に帰属する。¶42
バハオラは、アグサンの筋が万国正義院の設立の前に途絶える可能性を述べている。彼は、そのような状況下では基金はバハの人々に帰属すると定めている。バハの人々は、バハイの書では様々な意味で用いられている。この場合バハの人々とは、彼の許可なしに語ることなく、この書簡において神が定めたことに応じて判断する者らとして描写されている。1957年、守護者が亡くなると、神の大業の翼成者らは、1963年に万国正義院が設立されるまで大業の業務を指揮した(注釈 183)。
68剃髪してはならない。¶44
いくつかの宗教の伝統では、頭を剃ることが好ましいとされている。頭を剃ることはバハオラにより禁じられており、スーリ・ハージにおいて、シラーズの聖なる家へ行く巡礼者は頭を剃らねばならないとされる規定は、ケタベ・アグダスのこの聖句により取って代えられていることを明確にしている(質疑応答 10)。
69.髪を耳たぶよりも越えて伸ばすことは似つかわしくない。¶44
ショーギ・エフェンディは、剃髪の禁止と異なり、髪を耳たぶより伸ばすことを禁止するこの法律は、男性のみに適用されることを明確にしている。この法律の適応は万国正義院の説明を必要とするであろう。
70盗人に対しては追放と投獄が定められている。¶45
バハオラは、違反行為の重大さに応じて罰を決めることは、正義院に委託されていると述べている(質疑応答 49)。窃盗に対する罰則は将来の社会の状態を意図しているものであり、それの補足と、適応は万国正義院によりなされる。
71三回目の犯行におよんでは、その者の額に印をつけて、それによって彼がそうであることが確認され、神の諸々の市や国に受け入れられないようにする。¶45
盗人の額に刻まれる印は、人々にその者の性癖について警告する目的を果たす。印の性質に関する詳細や、印がどのようにつけられるか、どれくらいの期間つけるか、どのような条件下でそれが削除されるか、窃盗の度合いについてなどは、法律が適応されるときに決定するよう、バハオラは万国正義院の手に委ねている。
72金や銀の器を使いたいと思う者はそうするがよい。¶46
バブはバヤンにおいて、金や銀でできた器具の使用を許可し、イスラム教によるそれらの使用の禁止を廃止している。これは、コーランの明白な法令に基づくものではなく、イスラムの伝承に基づくものである。バハオラはここで、バブの規定を確認しているのである。
73食事をする時に、椀や皿の中に手を突っ込まぬよう注意せよ。¶46
この禁止令は、ショーギ・エフェンディにより、「手を食物の中につっこむ」ことと定義されている。世界の多くの地域では、共同の鍋から手で取って食べることが習慣であった。
74汝ら、優美にかなった作法を身につけよ。¶46
これが、洗練性や清潔性の重要性に言及する聖句の中で初めて出てくるものである。アラビア語原典の言葉は”litafat”で、ここでは、洗練性と訳されており精神的暗示と身体的暗示の両方を含む広い意味がある。たとえば、優雅、優美、清潔性、丁重さ、礼儀正しさ、物腰の柔らかさ、細やかさ及び上品さ、繊細さ、洗礼された、聖別された、純粋などである。ケタベ・アグダスの中の様々な聖句の文脈に応じて、それは洗練性、または清潔と訳されている。
75神の大業の黎明の場である御方は、神の最高の不過誤性において、仲間はない。¶47
バハオラはイシュラカトの書簡で、最大の不過誤性は神の顕示者に限られた権限であると述べている。質疑応答 集の第45章には、アグダスのこの聖句に関するアブドル・バハの説明がある。彼はこの章で、本質的な不過誤性は神の顕示者から切り離せないことを他の事柄とともに強調し、「彼らから流出するものは全て、真実と同一であり、実在性に一致」し、また、「彼らは、以前の法律の下陰にはない。彼らが語ることは全て、神の言葉であり、彼らがなすことは全て、清廉なる行為なのである」と述べている。
76すべての父親には、読み書きの技術を息子や娘に指導する義務がある。¶48
アブドル・バハは書簡の中で、全ての子供を教育する親の責任について要求しているだけでなく、「娘の訓練と教養は、息子に対するものよりも必要度が高い」とはっきり述べている。なぜなら、女子はやがて母親になり、母親は新しい世代の最初の教育者になるからである。もしも、家族がすべての子供を教育することができなければ、娘に優先権が与えられるべきである。教育された母親を通して、知識の恩恵は、最も効率良く、かつ速やかに社会へ広めることができるからである。
77神は姦通を犯す者、男性にも女性にも、罰金を課したまい、罰金は万国正義院に支払われることとした。¶49
「姦通」と訳されているこの言葉は、既婚者同士、あるいは未婚者同士の間での、非合法的な性交を意味する(この用語の定義については、注釈 36参照のこと)が、ア.ブドル・バハは、ここで規定されている罰は、未婚者同士の性交に対する罰であると述べている。彼は、既婚者が犯した姦通に対する罰については、万国正義院が決定すると指摘している。(質疑応答 49も参照のこと)。アブドル・バハは、ある書簡で、道徳律の違反に関するする精神的・社会的意味のいくつかについて言及しており、ここで述べられている罰は、そのような行為が神の眼に恥ずべきものであることをこの法律によって全ての人に知らしめること、また、違反が確立され罰金が課された場合、その主な目的は違反者の暴露であることを述べている。そうすることにより、違反者が恥じ、社会の眼に不名誉を感じることである。この聖句で言及されている正義院は地方正義院のことで、現在、地方精神行政会として知られている。
78金9メスガルであり、もし違反を再び犯したら、二倍になる。¶49
「メスガル」とは、重量の単位である。中東で伝統的に用いられてきた1メスガルは、24ナクーズに相当する。しかし、バハイが用いるメスガルは、バヤンの規定によると19ナクーズである(質疑応答 23)。9メスガルは、32775グラム、または1 05374金オンスに相当する。罰金の適用に関して、バハオラは、次の罰金はその前の罰金の二倍になる、と述べている。こうして、課される罰金は等比数列で増していく。この罰金の賦課は、将来、万国正義院がこの法律を補足し適用するようになる社会を対象としている。
79.われは、汝らが音楽や歌を聞くことを合法とした。¶51
アブドル・バハは、「東洋のいくつかの国では、音楽はとがめらるべきものと考えられている」と書いている。コーランには、これに関して特定の指導はないが、イスラム教徒には、音楽を聞くことを非合法とする者もいるし、ある制限内で、特定の条件の下に音楽を寛容する者もいる。バハイの書では、音楽を賞賛する聖句が多い。たとえば、アブドル・バハは、歌や、演奏は、魂と心のための精神的食物であると述べている。
80おお、正義の紳士らよ!¶52
万国正義院のメンバーは男性に限られるが、二次的及び地方正義院(現在全国及び地方精神行政会と呼ばれている)のメンバーは男女とも被選挙権がある、とアブドル・バハとショーギ・エフェンディの書に説明されている。
81人に怪我をさせたり叩いたりすることに対する罰則は、その傷害の程度による。それぞれの程度に応じて、審判の主はいくらかの賠 償金を規定された。¶56
バハオラは、罰の程度は傷害の程度によると述べているが、各々の違反行為に対する罰の程度については、詳しく記していない。これらのことを決定する責任は、万国正義院に委託されている。
82まことに汝らは、毎月一回もてなしをなすよう命ぜられている。¶57
この命令が、毎月一回バハイの祭典を開くことの基盤となっており、これが、19日毎のフィーストの教えを構成する。アラビア語のバヤンでバブは、信者らが19日毎に集まって、もてなしと友好の精神を示すよう呼びかけている。バハオラも、それをここで確認し、そのような催しが有する統合力を指摘している。バハオラの後、アブドル・バハとショーギ・エフェンディは、この教えの機構的な意味を徐々に展開させていった。アブドル・バハは、これらの会合の精神的、祈祷的な重要性を強調し、ショーギ・エフェンディは、フィーストの祈祷的・社会的局面を説明する一方でその会合の行政的要素を展開させ、フィーストを体系的に機構化するにあたって、ニュースやメッセージを交換するなど、バハイ共同体の業務に関する協議の時間を設けた。この教えが義務的なものであるかどうかという質問に対して、バハオラは、義務的ではないと答えている(質疑応答 48)。ショーギ・エフェンディは、その代理による手紙の中で、さらに以下のように述べている。 19日毎のフィーストヘの出席は義務ではありませんが、非常に重要です。あらゆる信者は、そのような催しに出席することを義務や特権として考えるべきです。
83もし汝ら、捕獲用の動物や鳥を使って狩猟をするならば、それらを捕獲に出すときに、神の御名を呼びかけるがよい。そうすれば、それらが捕まえてくるものが仮に死んでいたとしても、汝にとって合法的なものとなる。¶60
この法律により、バハオラは狩猟に関する過去の習慣や宗教的規制を極めて簡素化している。彼は、弓矢や銃などの武器を用いた狩猟もこの規制の中に含めているが、すでに死んでいる獲物を食べることを禁止している(質疑応答 24)。
84過度に狩猟せぬよう...。¶60
バハオラは狩猟を禁止してはいないが、過度の狩猟に対しては警告を出している。やがて万国正義院が、過度な狩猟とは何かを考慮すべき時がくると考えられる。
85神は、他人の財産に対する権利をわが親族に授けてはおられない。¶61
バハオラの親族に親切を示すという教えは、彼らに他人の財産を分け与えるということではない。これは、シーア派イスラム教の慣習に関する言及であり、そこでは、モハメッドの直系の子孫はある税金の一部を受け取る権利がある。
86あるものが、意図的に家に放火したならば、彼自身も焼かれなければならない。また、故意に人の命を奪ったならば、彼自身も殺されねばならない。¶62
バハオラの法律によると、殺人と放火には死刑という規定があり、別の罰として終身刑がある(注釈 87参照)。アブドル・バハは書簡の中で、復讐と罰の違いを述べている。彼は、個人は復讐する権利はなく、復讐は神の眼において軽蔑されること、また刑罰の動機は復讐ではなく、犯された違反に対する罰則であることを述べている。彼は「質疑応答 集」で、社会のメンバーを保護し、社会の存在を擁護するために、犯罪人を罰することは社会の権利であると断言している。この規定に関してショーギ・エフェンディは、その代理の手紙で次のような説明をしている。
バハオラは、殺人に対する罰は死刑であるとアグダスで述べています。しかし、彼は、別の方法として終身刑を下すことを許可しています。どちらも、彼の法律に応じた刑です。われわれの中には、自分の限られたビジョンとは異なるこの英知を分らない人があるかも知れません。しかし、われわれは、彼の英知と慈悲と正義が完璧であり、全世界の救済のためのものであることを知っているので、それを受け入れなければなりません。もし、人が誤って死刑に処されたとしても、われわれは、この人間的な不正義について、次の世で全能なる神がその人を一千倍も償なわれるということを信じられないでしょうか?まれに、無実な人が罰されることがあるからといって、健全な法律を捨て去ることはできません。
殺人と放火に関するバハイの法律は未来社会を対象としたもので、バハオラはその詳細を記していない。違反の程度の判定、酌量すべき状況かどうかの判断、規定されている罰のうちどちらを規範とするかなど、法律の様々な詳細は法律が施行されるときの状況に応じて万国正義院が決定することである。罰の執行法も、万国正義院が決定することになっている。放火に関しては、どのような家が焼けたのかによる。明らかに、空き倉庫が焼けたのと、子供で一杯になった学校の建物が焼けたのとでは、大きな違いがある。
87放火犯と殺人犯を終身禁固刑に処すことは聖典の規定で許されている。¶62
ショー・ギ・エフェンディは、アグダスのこの聖句に関する質問に対して、死刑は許されているが、そのような罰が非常に和らげられる代法として終身刑があることを述べている。彼は、「バハオラは私達に選択の余地を与えています。ゆえに、彼の法律により与えられた制限の中で、我々の判断を行使できるようにされている。」と述べている。バハイの法のこの局面の適用に関して特定の指導がない場合、将来、万国正義院が法律を制定するように託されている。
88神は、結婚を汝らのために規定された。¶63
バハオラはある書簡で、神はこの法律を確立するにあたり、結婚を幸福と救済の要塞とされた、と述べている。「概要と体系化」IV.C.1 a-oには、結婚と結婚が許可される条件(質疑応答 3、質疑応答 13、質疑応答 46、質疑応答 50、質疑応答 84、質疑応答 92)、婚約者に対する法(質疑応答 43)、寡婦結納金の支払(質疑応答 12、質疑応答 26、質疑応答 39、質疑応答 47、質疑応答 87、質疑応答 88)、配偶者の不在が長期化する場合(質疑応答 4質疑応答 27)、その他さまざまな状況(質疑応答 12質疑応答 47)に関するアグダスと「質疑と応答」の要約と統合がある。(質疑応答 88, 質疑応答 89, 質疑応答 90, 質疑応答 91, 質疑応答 92, 質疑応答 93, 質疑応答 94, 質疑応答 95, 質疑応答 96, 質疑応答 97, 質疑応答 98, 質疑応答 99も参照のこと)
89.二人より多くの妻を取らぬよう注意せよ。一人の伴侶を選んで満足するならば、夫も妻も、平穏のうちに生きるであろう。¶63
アグダスの本文は重婚を許司しているように見えるが、バハオラは、平穏と満足は一夫一婦制から来ると助言している。別の書簡で彼は、それぞれが自分自身と相手に慰めをもたらすように振る舞うことの重要性について概略を述べている。バハイの書の権威ある解釈者であるアブドル・バハは、実際アグダスの本文では、一夫一婦制が命じられていると述べている。彼はこれについて、次の書簡を含めたいくつかの書簡で説明している。
汝、神の法律では、一夫多妻制は許されていないことを知れ。一人の妻で満足するように明確に規定されているからである。妻をもう一人めとることは、二人の妻の間で公平と正義を守ることが条件とされている。二人の妻に対して正義と公平を守ることは全く不可能である。重婚を、不可能な条件に依存させているということが、その絶対的禁止の明確な証明である。ゆえに、男性が一人以上の妻を持っことは許可されていないことになる。
一夫多妻制は、人類にとって非常に古くからあった習慣である。一夫一婦制は、神の顕示者たちにより徐々に導入されていった。たとえば、イエスは、一夫多妻制を禁止しはしなかったが、(未婚者間の)姦通の場合を除いて、離婚を廃止した。モハメッドは妻の数を四人までに制限したが、正義を守ることを条件として妻を複数持つことを許可し、また離婚の法を再導入した。バハオラは、イスラム教の環境で教えを啓示したが、英知の原則と彼の目的を展開させるに応じて、一夫一婦制を徐々に導入された。彼は、自分の書の解釈者を信者のために残すことによって、ケタベ・アグダスで二人の妻を持っことを外見的に可能にしながら、後に、アブドル・バハが、この法律の意図は一夫一婦制を施行することであったと説明する条件を支持したのである。
90女中を雇いたい者は、礼節を持ってそうすることができる。¶63
バハオラは、男性が家政のために女中を雇うことは許されると述べている。シーア派イスラム教では、雇い主がその女中と結婚契約を結ばない限り、雇用は許可されないことであった。この聖句で言及されている奉仕とは、他の階級のしもべ一一老若関係なく一一によって、俸給と交換になされる奉仕のみであると、バハオラは強調している(質疑応答 30)。雇い主は女中仁対して、いかなる性的権利も持たない。その女中は、望むときに夫を選ぶことができる。女性を買うことは禁止されているからである(質疑応答 30)。
91これは、汝らに対するわが命令である。自分自身のために、それに確固としてっかまれ。¶63
結婚はケタベ・アグダスにおいて命じられてはいるが、それは義務ではないということをバハオラは明確にしている(質疑応答 46)。ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、結婚は決して義務ではないと宣言しており、結婚生活を送るか、独身生活を送るかは、最終的には個人の決めることであるとも断言している。ある人が、配偶者を見つけるまでに長い間待たねばならない、あるいは、生涯独身のままでいなければならないとしても、人生の目的一一根本的に精神的なもの一一を果たせないということにはならないのである。
92結婚について双方の両親の許しを条件とした。¶65
ショーギ・エフェンディは、代理による手紙で、この規定についてこう書いている。
バハオラは、バハイの結婚には生存中の親全員の同意が必要であるとはっきり述べています。これは、親がバハイであろうとなかろうと、あるいはその両親が何年も離婚したままであっても適用されます。バハオラは、この偉大なる法律を、社会構造を強化し、家庭の絆を密接に結び付けるため、そして、子供達の心の中に、自分たちに生命を与え、その魂を創造者に向けての永遠の旅路へ送り出してくれた人たちに対する感謝と敬意の気持ちを植え付けるために、規定されたのです。
93結納金の支払いなしには結婚は成立しない。¶66
「概要と体系化」Iv.c.1 j.i.一v.には、結納金に関する主な規定が要約されている。これらの規定の起源はバヤンにある。結納金は、花婿から花嫁に支払われる。都会に住む者は純金で19メスガル、村に住む者は銀で19メスガルと定められている(注釈 94)。バハオラは、結婚の際に花婿が結納金全額を払えない場合、花嫁に約束手形を渡すことが許可されると述べている(質疑応答 39)。バハオラの啓示の到来と共に、多くの馴染みある概念や慣習や制度が再定義され、新しい意味合いを持たらされた。そのひとつが結納金である。結納金の制度は多くの文化において非常に古いもので、多くの形態がある。いくつかの国ではそれは花嫁の親から花婿に対して払われるし、ある国では花婿から花嫁の親に対して払われ、これはbridepriceと呼ばれている。いずれもの場合も、金額は相当なものである。バハオラの法律はそのような変形を全てなくし、結納金を、花婿がいくらかの限られた価値のある贈り物を花嫁に渡すという象徴的な行為に変えている。
94都会に住む者は純金19メスガル、村に住む者は銀19メスガルと定められている。¶66
バハオラは、結納金の決定基準を、花嫁ではなく、花婿の住居のある場所としている(質疑応答 87質疑応答 88)。
95この金額を増加させたい者は、95メスガルを超えることは禁ぜられる....聖典によると、もし人が最低金額で満足するならその者にとって一層良いことである。¶66
結納金に関する質問に対して、バハオラはこう述べている。
都市や村に住む者に関してバヤンで啓示されていることが承認されており、これを実行すべきである。しかし、ケタベ・アグダスでは最低のレベルについて言及している。その意図することは銀19メスガルであり、これはバヤンにおいて村に住む者に規定されている。双方が合意すれば、これが神にとってより好ましいことである。全ての者の安楽を促進し、人々の間に調和と結合をもたらすことが目的である。ゆえに、これらの事柄を考慮すればするほど、良いことである....バハの人々は互いに、最高の愛と誠実さを持って交わり、互いを扱わねばならない。彼らは、全ての者の利益、特に神の友らの利益に注意を払うべきである。
アブドル・バハはある書簡で、結納金を決めるための規定のいくつかをまとめている。以下の引用で言及されている支払の単位は「ヴァヒード」である。1ヴァヒードは19メスガルに等しい。彼はこう述べている。
都会に住む者は金で払い、村に住む者は銀で払わねばならない。それは、花婿のもつ経済的手段に依存する。もし彼が貧しければ、1ヴァヒードを払う。中位であれば2ヴァヒード払い、結構裕福であれば3ヴァヒード払う。さらに富裕な者は4ヴァヒード、非常に金持ちであれば5ヴァヒード払うのである。それは、まことに、花婿と花嫁、そして彼らの親の間の同意に関する事柄である。同意されたことを実行すべきである。
この法律の適用に関する質問は、法律を制定する権限のある万国正義院に照会するよう、この書簡の中でアブドル・バハは信者らに奨励している。彼は、「聖なる原典において明白に述べられていない二次的な事柄について法律を制定するのは、この機関である」と強調している。
96神のしもべが旅をする時は、妻に対して家に帰る時を定めなければならない。¶67
もし、夫が帰る期日を妻に告げずに家を出た場合、そして、妻に彼からの便りがなく、消息が断たれた場合、バハオラはこう述べている。もし夫が、ケタベ・アグダスに定められた法律を知っているならば、妻は丸1年待った後、再婚してもよい、と。しかし、もし夫がこの法律について知らないのであれば、妻は夫の知らせが届くまで待たねばならない(質疑応答 4)。
97妻は九カ月間待つ義務がある。その後は、別の男性を夫として迎えても何の妨げもない。¶67
夫が、決められた期日に帰ることができなったり、遅延することを妻に知らせることができなかったりした場合、妻は九カ月待たねばならず、その後、妻は再婚することができるが、さらに長く待てればより好ましい(バハイ暦については注釈 147)。バハオラはそのような状況においては、夫の死か、殺害の知らせが妻に届いた場合、妻は再婚する前に九カ月待たねばならない(質疑応答 27)。夫の死後九カ月待つのは、夫が家を開けている間に死んだ場合であり、家にいるときに死んだ場合にはあてはまらない、とアブドル・バハはある書簡でさらに明確している。
98彼女は賞賛さるべき道を選ぶべきである。¶67
バハオラは、賞賛さるべき道を辛抱の行使と定義している(質疑応答 4)。
99.二人の公正な目撃者¶67
バハオラは、証人に関して、正義の基準は人々の間でのよい評判であり、証人はバハイである必要はないと述べている。「信仰や信条に関わらず、神の全てのしもべの証言は、神の玉座の前で受け入れられるからである。」(質疑応答 79)
100夫と妻の間に恨みや嫌悪感が起きたならば、夫は妻と離婚すべきではなく、一年間、辛抱強く待つべきである。¶68
バハイの教えでは離婚は強くとがめられている。しかし、もし夫婦の間で互いに敵意や反感が生じた場合、1年経過した段階で離婚が許可される。この辛抱の一年の間、夫は妻と子供のために経済的な援助を施す義務があり、二人は問題を調停するよう促される。ショーギ・エフェンディは、夫と妻のどちらかが離婚を求めることが絶対的に必要であると感じるならば、どちらもそれを求める同等の権利があると述べている。バハオラは「質疑と応答」で、辛抱の一年とその実施(質疑応答 12)、それが開始される日(質疑応答 19質疑応答 40)、調停の条件(質疑応答 38)、証人と地方正義院の役割(質疑応答 73及び98)に関する問題について説明している。証人に関して万国正義院は、今日、離婚の証人の義務は精神行政会が行うと説明している。離婚に関するバハイの詳細な規定は、「概要と体系化」IV.C.2a-iに要約してある。
101妻に三重の離婚を言い渡した場合に行うよう定められていた以前の手続きを、主は...禁止し給うた。¶68
これは、コーランに述べてあるイスラム教の法律に関連するもの。イスラムの法律では、男性が自分の一度離婚した女性と再婚したい場合、ある条件下では、その女性がその間に他の男性と結婚し離婚していなければならないと定めている。バハオラは、ケタベ・アグダスではこの法律が禁止されたと述べている(質疑応答 31)。
102妻と離婚した男性は、各月が経過したなら、互いへの愛情と同意があり、彼女が別の男性と結婚していなければ、その女性と再婚することができる....彼女の状況が変化しない限り....¶68
ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、「各月が経過した」との意図は、制限を課することではなく、離婚した二人はどちらかが別の人と結婚していない限り再婚できるということである、と述べている。
103精液は不浄でない。¶74
多くの宗教的伝統やシーア派イスラムの習慣では、精液は儀式的に不浄であるとされた。バハオラはここでこの概念を取り消している。注釈 106を参照のこと。
104洗練さの綱にしっかりとっかまれ。¶74
アブドル・バハは、純潔と神聖さ、清潔、洗練さが人間の高尚な状態と、人間の内的実在の成長に及ぼす効果について述べている。また、「純潔で汚れひとつない身体を持っことは、人間の精神に影響を及ぼす」と述べている。(注釈 74参照)
105水の持つ三つの要素のどれにおいても変化をきたしていない水で、汚れた物をすべて洗え。¶74
この聖句で述べられている三つの要素とは、水の色、味、においである。バハオラは、清らかな水について、またそれがどの時点で使用不適切となるかについて、追加の教えを述べている(質疑応答 91)。
106神は...様々な物や諸民族が汚れたものであると見なしてきた不浄の概念を廃止された。¶75
いくつかの部族社会や、過去の宗教制の宗教共同体で、理解され実施されている儀式的不浄性はバハオラによって廃止されている。バハオラは、「全創造物は、純化の海に浸された」と、その啓示で述べている。(注釈 12、注釈 20 注釈 103参照)。
107レズワンの最初の日。¶75
これは、バハオラとその同伴者らが、バグダッド市外にあるナジビイの園一一後にバハイの人々にレズワンの園と呼ばれるようになった一一に到着したことへの言及である。それは、1863年4月、ノー・ルーズから31日後のことで、バハオラがご自分の使命を同伴者らに宣言したことを意味する。ある書簡でバハオラは、自分の使命宣言を最高の幸福の日として言及し、レズワンの園を、「彼が、全てに慈悲深き者という彼の名の光輝を全創造界に放った場所」として描写している。バハオラは、追放先イスタンプールヘ発つ前の12臼間をここで過ごした。バハオラの使命宣言は、12日間のレズワン祭によって毎年祝われる。これは、全てのバハイの祭典の中で最も神聖で、最も重要なものとしてショーギ・エフェンディによって描写されている。(注釈 138 注釈 140参照)
108バヤン¶77
バビ宗教制の母なる書であるバヤンは、バブにより「彼の法律の書」というタイトルがつけられており、それはまた、バブの書物のすべてに適用されるものである。イラン語のバヤンは主要な教義上の記述とバブによって制定された法の重要な貯蔵庫である。ショーギ・エフェンディは、「神よぎり給う」の中で、イラン語のバヤンは、「未来の世代のための恒久的な指針となるよう意図された法律や法令の法典ではなく、むしろ主に、約束された御方への賛美」と見なすべきであると、述べている。アブドル・バハは、「ケタベ・アグダスにおいて確認され、言及されている法律を除いて、バヤンはケタベ・アグダスにより取って代わられた」と、書いている。
109.本の破損¶77
バハオラはイシュラカトの書簡で、バブが、バヤンで規定した法律についてはバハオラの承認を条件とするとしたことに言及して、ケタベ・アグダスで別の言葉で現することにより、バブの法律のいくつかを有効にし、いくつかを廃棄したと述べている。本の破損についてバヤンでは、神の大業と宗教の真実性を立証するために書かれたものを除いて、全ての本を破損するよう信者らに命じているが、バハオラは、バヤンのこの特定の法律を廃している。バヤンの法律の特質と厳しさについて、ショーギ・エフェンディは代理による手紙で、次のように述べている。
バブが啓示した厳しい法律や法令は、彼自身の宗教性の性質と目的と特徴に照らし合わせて解釈すると適切に理解されるであろう。これらの言明が述べているように、バビ宗教制は、本質的には、宗教的、そしてまことに社会的革命であり、ゆえに、その継続期間は短かった。しかし、悲劇的な出来事や劇的な改革に満ちていた。バブとその信者らが施行したこれらの劇的な方策は、シーア派の正当制の基盤を脅かすものとしてみられた。こうして、バハオラの到来のための道を敷いた新しい宗教制の独自性を主張し、また、バハオラの啓示の到来の基盤を作るために、バプは、たとえそのほとんどは施行されなかったとはいえ、非常に厳しい法律を啓示せねばならなった。しかし、彼がそれらを啓示したという事実は、彼の宗教制の独自性を証拠立て、かように広範囲にわたる騒動を起こし、バブの最終的な殉死をもたらしたほどの聖職者層の反対を引き起こすに十分であった。
110われは、無意味な論争に終始するようなものではなく、汝らの益になる諸科学の本を読むことを許司した。¶77
バハイの書では、知識の習得と、芸術や科学の研究を奨励している。バハイは、教養と学識のある人々に敬意を示すよう奨励されている。また、実りのない口論のみを生み出すような学問を追求することに対して警告を受けている。バハオラはその書簡で、有益で、社会の進歩と発展を促進するような科学や芸術を学習するよう信者らに助言している。また、その追求は、空虚な論争につながるところの、言葉に終始する学問に対して警告を発している。ショーギ・エフェンディはその代理によって書いた手紙で、言葉に終始する学問を形而上学的な、詳細にこだわる空虚な理屈の実りなき堂々巡りに例えている。また、バハオラがそのような学問ということで意味したものは、主として「人間の理性が真実に達するのを援助するのではなく、その理性を煩わせる神学的な論文や注釈 」のことであると、別の手紙で説明している。
111神と会話を交わした者 ¶80
これは、ユダヤ教とイスラム教でモーゼについて参照する際の伝統的な称号である。バハオラは、自分の啓示の到来によって「人間の耳は、神と会話を交わした者がシナイの上で聞いたことを聞く特権を与えられた」と述べている。
112シナイ ¶80
神がモーゼに法律を下した山。
113神の精神 ¶80
これは、イスラム教とバハイ教の聖典においてイエスーキリストを指す称号の一つである。
114カルメル・…シオン¶80
神のぶどう園であるカルメルは聖地にある山で、ここに、バブの廟とバハイ信教の世界行政本部がある。シオンはエルサレムにある丘で、ダビデ王の墓のある場所で、聖なる町としてのエルサレムを象徴する。
115深紅の箱舟稲 ¶84
深紅の箱舟はバハオラの大業を意味する。バハオラの信奉者らは、バブにより「ガユムール・アスマ」の中で、深紅の箱舟の一行として賛美されている。
116おおオーストリアの皇帝よ。汝がアクサの寺院を訪問すべく出発した時、神の光の曙なる御方は、アッカの牢獄に住んでいた。¶85
オーストリアの皇帝で、ハンガリーの王であるフランシス・ヨセフ(フランツ・ヨセフ、1830-1926)は、1869年に聖地へ巡礼をしている。聖地にいる間彼は、当時アッカの囚人であったバハオラについて尋ねる機会を逃した。アクサ・モスクとは、直訳すると、最も遠くにあるモスクという意味で、コーランにおいて言及されている。これは、エルサレムにある「寺院の山」と同一のものと見なされている。
117おお、ベルリンの王よ!¶86
カイザー・ウイリアム1世(ヴィルヘルム・フリードリッヒ・ラトヴィク、1797-1888)は、プロシアの7番目の王で、1871年1月、フランス対プロシア戦争でドイツがフランスを下した後、ヴェルサイユでドイッ最初の王として迎えられている。
118汝の権力を越えて、汝の地位よりも高い地位にあった者¶86
これは、フランスの皇帝ナポレオン3世(1808-1873)に関する言及で、彼は、多くの歴史家により、当時西洋において最も有力な皇帝として見なされている。バハオラはナポレオンに二通の書簡を出しており、二通目で、ナポレオンの王国が混乱させられ、彼の帝国が彼の手中から逃れていくこと、そして人民が大いなる騒乱を経験するであろう,ことを明確に予言している。それから一年内の1870年に、ナポレオン3世は、カイザー・ウイリアム1世を相手にしたセダンの戦いで大きな敗北を期した。彼はイギリスヘ流刑の身となり、三年後に亡くなった。
119.おお、コンスタンチノープルの人々よ!¶89
ここでコンスタンチノープルと訳されている言葉は、原典ではアー・ルーム(Ar-Rum)、またはロウム(R㎝e)である。この用語は、中東では一一般的にコンスタンチノープルと東ローマ帝国を指す。当時は、これはビザンチンとビザンチン帝国であり後にこの帝国はオトマン帝国となった。
120おお、二つの海岸の間に位置する地よ!¶89
これはコンスタンチノープルを指しており、現在はイスタンブールと呼ばれている。黒海とマルマラ海とを結ぶ31キロにわたるボスポラス海峡に面した港町で、トルコ最大の都市である。コンスタンチノープルは、1453年から1922年まで、オトマン帝国の首都であった。バハオラがこの都市に滞在していたとき、残虐なスルタン、アブドル・アジズが王座についていた。オトマン帝国のスルタンは同時にカリフ、つまり、スンニ派イスラム教の指導者でもあった。バハオラはカリフ制度の崩壊を予期していたが、これは実際、1924年に廃止された。
121おお、ラインの岸辺よ!¶90
アブドル・バハは、第1次世界大戦(1914-1918)前に書いた書簡の中で、ラインの岸辺が血で覆われているのを見たというバハオラの言葉は、フランス対プロシア戦争(1870-1871)に関するものであり、そこには一層の苦しみが待っていると述べている。ショーギ・エフェンデイは、「神よぎり給う」の中で、第1次世界大戦後にドイツに課せられた訂酷で厳しい条約が、半世紀後にベルリンの嘆きを呼び起こすことは、予言されていた、と述べている。
122おお、「タ」の地よ!¶91
「タ」とは、イランの首都テヘランの最初の文字である。バハオラは、しばしば、最初の文字に言及することである場所を意味された。アブジャドの数え方によれば「タ」の数的価値は九で、これは「バハ」という名前の数的価値と同じである。
123汝の内に神の栄光の顕示者を誕生させた。¶92
これは、1817年11月12日、テヘランにおけるバハオラの誕生を指す。
124おお、「ハ」の地よ!¶94
これは、イランのクラサン州とその隣接地域を指す。この地域には、イシュカバード(アシュカバード)が含まれる。
125ある者が、100メスガルの金を得たなら、そのうちの19 メスガルは神のものであり、神に捧げられるべきである。¶97
この節により、ホゴゴラ、すなわち神の権利が設立された。これは、信者の所有物の価値の一部を捧げることを指す。これは最初、神の顕示者としてのバハオラに捧げられ、その後は、聖約の中心としてのアブドル・バハに捧げられた。アブドル・バハは、その「遺訓」の中で、ホゴゴラは神の大業の守護者を通して捧げられることを規定している。現在、守護者は存在しないので、ホゴゴラはバハイ信教の長としての万国正義院を通して捧げられている。この基金は、神の大業の促進とその利益のためや、その他様々な博愛的目的のために使われる。ホゴゴラを捧げることは精神的義務であるが、それは、各バハイの良心に任せられている。共同体は、ホゴゴラの法律について信者に思い起こさせることはできるが、いかなる信者にも個人的にその支払いを迫ることはできない。「質疑と応答」の多くの項目がこの法律の解説にあてられている。ホゴゴラの支払いは、個人の所有物の価値の計算に基づく。もし人が、金19ミスガル(質疑応答 8)の価値に等しい所有物を有すれば、その価値の19%のみを一度だけホゴゴラとして支払う(質疑応答 89)という精神的義務なのである。その後は、経費をすべて払った後に、収入の価値が19ミスガル増加する度に、人は、この増加分の19%を支払うことになる。その後も同様に、繰り返し支払っていく(質疑応答 8、質疑応答 9。)。所有物の一部、例えば、住居などは、ホゴゴラの支払い対象から免除される(質疑応答 8、質疑応答 42、質疑応答 95)。また、経済的損失の場合(質疑応答 44、質疑応答 45)、利益をもたらすことのできなかった投資(質疑応答 102)、その人が死亡した場合のホゴゴラの支払い(質疑応答 9、質疑応答 69、質疑応答 80)についての特定な規定も述べられている(後者の件については、注釈 47を参照のこと)。様々な書簡、質疑と応答、その他の書からの多岐にわたる、ホゴゴラの精神的意味その適応の詳細に関する抜粋集は、「ホゴゴラ」と題された編纂書に収められている。
126……神から下された法律に関して、わが玉座の前に様々な請願が信者らから送られてきた。したがって、われは、この聖なる書簡を啓示し、それを、主の法律の纏いでまとわせた。人々が主の命令を守るように。¶98
バハオラはある書簡で、「何年もの間、神の法律を願う請願が様々な土地から、最も神聖なる御前へ達した。しかし、定められし時がくるまで、われはペンを保留した」と述べている。テヘランのシア・チャールにおける預言者としての使命の誕生から20年経過して、バハオラは彼の宗教制の法律の宝庫である「ケタベ・アグダス」を啓示した。「アグダス」が啓示されてからも、バハオラはペルシャのバハイにそれを送ることをしばらく保留されていた。この時代の神の根本的法律の啓示が遅延されたこと、また、その後その規定内容が徐々に具現化されたことは神により意図されたもので、これによって各予言者の使命期間中でさえも累進的啓示の原則が適用されるということが分る。
127深紅の地点¶100
これは、牢獄都市アッカヘの言及である。バハイの書においては、「深紅の」という言葉はいくつかの寓意的、象徴的意味で用いられている(注釈 n5参照のこと)。
128サドラトウル・モンタハ¶100
文字通りには「最も遠くにあるロートの木」という意味で、ショーギ・エフェンディは、これを「それ以上先へ越えることのできない『樹』」と訳している。これは、イスラム教では象徴として用いられている。たとえば、ムハムマドの「夜の旅」の話では、神に近づく課程において人間も天使も越えることのできない点を指すのに用いられている。それにより、人類に啓示された聖なる知識の境界線を指すのである。こうして、バハイの書では、神の顕示者自身を指すものとして、しばしば用いられている。(注釈 164も参照)
129.「母なる書」¶103
「母なる書」という用語は、ある宗教制の中心となる「書」を指すために用いられる。イスラム教のコーランとハーディスでは、この用語は、コーランそのものを指している。バビ教では、バヤンが「母なる書」であり、バハオラの宗教制では「ケタベ・アグダス」がそれである。さらに、守護者は、その代理の手紙で、この概念は「バハオラが啓示した教え全体を指す全般的な用語」としても用いることができる、と述べている。また、これはもっと広い意味で神の「啓示」を収める「宝庫」を意味することもある。
130啓示の天から下されたものを解釈する者、その明白なる意味を歪めた者は・・¶105
バハオラは、いくつかの書簡で、寓話的な聖句と法律・法令・崇拝・宗教的義務に関する聖句の違いについて確認している。前者は解釈を受ける可能性があり、後者はその意味において明白であり、信者の従順を要求するものである。注釈 145及 注釈 184において説明されているように、バハオラは、長男のアブドル・バハを自身の後継者及び教えの解釈者として指名している。アブドル・バハは、代って、長孫のショーギ・エフェンディを聖典の解釈者及び大業の守護者として、自身の後継者として指名している。アブドル・バハとショーギ・エフェンディの解釈は、神により導かれているものと見なされ、信者はそれに従う義務がある。権限ある解釈が存在することは、信者個人が「教え」を勉強し、それにより個人的な解釈や理解を得たりすることを妨げるものではない。しかし、バハイの書では、権限ある解釈と、個人が教えの学習により得た理解との間に明白な違いを設けている。「教え」の個人的な理解に基づく個人的解釈は、人間の理性的機能の実りであり、信教をよりよく理解することに十分貢献し得る。しかし、そのような見解には権限がない。個人は、自分の考えを提示するにあたって、啓示された言葉の権限を放棄したり、権限ある解釈を否定したり、それと競ったり、論争に関わったりせぬよう注意を受けている。むしろ、自分の考えは自分自身のそれであることを明白にしつつ、それを知識への貢献として提示すべきである。
131ペルシャの大衆浴場に近づかぬよう注意せよ。¶106
バハオラは、ペルシャの伝統的な大衆浴場に見られるような浴場の使用を禁止している。このような浴場では多くの人々が同じ水で身体を洗ったり、水を替える周期が不定期であったりした。その結果、水は変色し、汚れ、不衛生となり、極度に悪臭を放っていた。
132同じく、ペルシャの家の中庭にある、悪臭のする貯水池を避けよ。¶106
ペルシャのほとんどの家では、洗濯や掃除などの家事のために中庭に水を溜めておく場所があった。このような場所の水はよどみ、何週間も替えられることがなかったため、非常に不快な臭いを放った。
133汝らは、自分の父親の妻との結婚を禁じられている。¶107
ここでは、自分の義理の母との結婚が厳しく禁じられている。これは、義理に父との結婚にも当てはめられる。バハオラが男性と女性の間に法律を述べているとき、文脈により不可能でない限り、それは、お互いの方向に当てはまるのである。アブドル・バハとショーギ・エフェンデイは、この本文では義理の母親だけが述べられているが、家族内の他の関係は許されると言う意味ではないと確認している。バハオラは、「自分の親戚との結婚の妥当性に付いて」の法律制定は正義院にまかされると述べている(質疑応答 50)。アブドル・バハは、結婚相手の血縁関係は遠ければ遠いほど良いと述べている。なぜなら、そのような結婚の方が人類の肉体的健全と人類間の友好関係のためになるからである。
134男子の主題¶107
ここでの男子という言葉は、この文脈では、アラビア語の原語では男色を暗示する。ショーギ・エフェンデイは、この言及は同性愛をすべて禁止するものと解釈している。性に関する道徳についてバハイの教えは、人類社会全構造の基盤として結婚と家庭に中心をおく。このように、バハイの法律は性行為を結婚している男女の間にのみ許すものとする。ショーギ・エフェンデイの代理による手紙では以下のように述べられている。同性の二人の間の愛がどれだけ献身的ですばらしいものであっても、それを性行為において表現することは間違っています。それが理想なのだということは言い訳にはなりません。あらゆる種類の不道徳行為は、バハオラにより禁じられています。そしてバハオラは、同性愛の関係もそうだと見なしておられますし、それは自然に反することなのです。このような形で苦しめられることは、良心的魂にとって大きな負担です。しかし、医者の助言や援助を通して、また祈りを通して、魂はこの障害を克服できるのです。
姦淫や男色に対する罰則は、違反行為の程度に応じて万国正義院が決定すると、バハオラは規定している(質疑応答 49)。
135いかなる者も、公の眼の前で、道や市場を歩きながら聖句を眩く事を禁ず。¶108
これは、過去の宗教制のある聖職者や宗教的指導者らの慣習に関する言及である。彼らは偽善と欲情のために、また、信奉者らの賛美を勝ち得るために、祈りの言葉を公の場でこれ見よがしに唱えていた。自分達の敬度な態度を示したいためである。バハオラはそのような行為を禁じ、神に対する謙虚さと真の献身の重要さを強調された。
136あらゆる者は、遺書を書くよう義務づけられている。¶109
バハオラの教えによると、個人は、遺言を書く義務があり、自分の財産を自分が望む方法で処分することができる(注釈 38を参照のこと)。バハオラは、遺言を書くにあたって、人は自分の財産を全面的に管理できると確認しておられる。なぜなら、神は、人に、神が与え給うたものを自分の望み通りに扱うこと」を許されたからである(質疑応答 69)。遺言を残さずに死亡した場合の財産の配分法については、「ケタベ・アグダス」において規定されている(注釈 38, 注釈 39, 注釈 40, 注釈 41, 注釈 42, 注釈 43, 注釈 44, 注釈 45, 注釈 46, 注釈 47, 注釈 48参照)。
137最大名¶109
注釈 33でも説明されているように、神の「最大名」は、さまざまな形態を持ちうる。またそれらはすべて「バハ」という言葉に基づいている。東洋のバハイたちはこのケタペ・アグダスの規定を適用し、「おお、栄光に満ちたものの中の最も栄光ある御方よ」、「栄光に満ち給う神の御名において」、「彼こそは栄光に満ち給う方なり」などといった表現を遺言の初頭に記している。
138全てのフィーストは、二つの最も偉大なるフィーストと、一対の日に来るもう二つの祭典において、最高状態に達した。¶110
この言葉によりバハイの四大祭典が確立される。バハオラにより二つの最大の祭典として定められているものの一つはレズワンの祭典であり、1863年の四月から五月にかけてバグダッドのレズワンの園でバハオラがその予言者の使命を宣言したことを記念するものである。それは、祭典の中の王として言及されている。二番目は、1844年、シラーズで起こったバブの宣言である。レズワンの祭典の第一、第九、第十二日目は聖なる日である(質疑応答 1)。一他の二つの祭典」はバハオラとバブの誕生日である。イスラム教の陰暦によるとこの二つの日は続いており、バハオラの誕生日は回教暦1233年、ムハラムの月の二日目(1817年11月12日)で、バブの護生日は回教暦1235年、同じ月の一日目である(1819年10月20日)である。このようにこの二つの日は、「対をなす護生日」として量る(質疑応答 2)。彼は、もしそれらの日が断食の月の間に起こるならば断食の命令はそれらに日には適応しないと述べている(質疑応答 36)。バハイ暦は、太陽暦(注釈 26、注釈 147を参照)であるため、対をなす聖なる誕生日を太陽暦、陰暦のどちらに基づいて祝うべきかは万国正義院が決定することになる。
139.バハの月の第一日¶111
バハイ暦では、一年の最初の月と毎月最初の日はバハという名前を与えられている。したがって、バハの月のバハの日は、バハイの元日、ノー・ルーズである。これは、バプにより祭典として定められ、バハオラにより確認されている(注釈 26、147参照)。ケタベ・アグダスに定められている七つの聖なる日に加えて、バブの殉教は、バハオラの存命中に記念されていた。それを前提として、アブドル・バハは、バハオラの昇天も聖なる日として加えられたため、それらは九となった。記念日として催しはするが仕事を休むことはしない二つの日は「聖約の日」と、アブドル・バハの昇天の日である。「バハイ世界」の第13巻のバハイ暦に関する章を参照のこと。
140まことに、この最大祝祭日はもろもろの祝祭日の王である。¶112。
これは、レズワン祭典に関するものである(注釈 107、注釈 138)。
141神は以前、各信者に自分の所有物の中から貴重な贈り物をわが玉座の面前に捧げる義務を課された。しかし今、われは・・…この義務を廃止した。¶114
この文により、その種類において類のない物は、神が現わし給う者が現れるときには、彼に捧げるべきであるというバヤンの規定は廃止された。バブは、神の顕示者は、比較を超越しているので、その種類において類なき物は何であれ、正当に顕示者がそうでないと定めない限り、顕示者のために取っておかれるべきであると定めた。
142夜明け¶115
バハイの礼拝堂であるマシュレゴル・アズカルで夜明けの祈りに参加することについて、バハオラは、神の書で規定されている実際の時間は夜明けであるが、夜明けの最初から夜明けと日の出の間、あるいは日の出二時間後までよい(質疑応答 15)、と説明されている。
143これらの書簡は、夜明けをもたらし、天と地の間に声を上げた者の印章で飾られている。¶117
バハオラは、自身の文書の、神の言葉としての絶対的な無欠性を繰り返し断言している。「バハイ世界」の第五巻のp4には、バハオラのいくつかの封印の写真が載せてある。
144理性を授けられている人間が、その理性を奪ってしまうものを取り込むことは許可されない。¶119
バハイの文書には、ワインや他のアルコール飲料の使用を禁止し、そのような飲料の有害な影響について述べる言及が多くある。ある書簡で、バハオラはこう述べている:
神の「ワイン」を汝らのワインと交換せぬよう、注意せよ。なぜならそれは、汝らの知性を硬直させ、汝らの顔を、栄光に満ちたもう方、比類なき方、近づくことのできない方なる神の「顔」からそれさせるからである。それに近づくなかれ。それは、崇高なる方、全能者なる神の命により汝らに禁ぜられているからである。アブドル・バハは、アグダスでは、「軽いものも強いものもアルコールは」禁ぜられている、と述べ、禁止の理由は、「アルコールは、知性を迷わせ、肉体を弱めるからである」と述べている。ショーギ・エフェンデイは、代理による手紙の中で、この禁止は、ワインだけでなく、「知性を混乱させるすべてのもの」を摂取することを含む、と述べている。また、彼は、アルコールの使用は、「ある特殊な病気の治療のために処方を必要とする、有能で良心的な医者の助言において」施される医療の時のみ、許される、と述べている。
145神が意図したもうた者、この古来の根茎より分岐した者になんじらの面を向けよ。¶121
バハオラは、ここで、アブドゥル・バハに、自身の後継者として言及し、彼に向かうように、信者らに呼びかけている。バハオラは、自身の遺訓である「聖約の書」において、この節の意図について明かしている。彼は、こう述べている:「この聖なる節の対象は、最も強大なる枝に他ならない。」最も強大なる枝」とは、バハオラがアブドゥル・バハに付与した称号の一つである。(注釈 66、184を参照のこと)。
146バヤンの書は、われに質問することを禁じている。¶126
バブは、神が顕現したもう者(バハオラ)に質疑をかけることを、それが文書において出され、その者の深遠なる地位にふさわしいものでない限り、信奉者らにそうすることを禁じた。Selectionsfro the Writings of the Bab(「バブの書からの抜粋」を参照)。バハオラは、バブのこの禁止令を除外している。彼は、信者らに、必要とする質疑をかけることを招待しているが、「以前の人々」を没頭させた「たわいない質疑」を出すことから控えるように忠告している。
147神の書で定められた1年間の月の数は、19である。¶127
バハイの年は、バブの暦に応じて、ひと月19日で19ヵ月およびいくつかの閏日(通常は四日で、閏年には五日)が加えられて成立する。閏日は、18ヵ月目と19ヵ月目の間来る。バブは、月々を神の属性に応じて名付けた。バハイの新年、ナルーズは、天文学的に定められており、春分(注釈 26参照)と一致する。一週間の日の名前や月の名前など、詳細は、TheBaha’i Worldの第13巻のバハイ暦に関するセクションを参照されたい。
148最初の月は、全創造物をおおい包むこの御名で飾られた。¶127
ペルシャ語のバヤンで、バブは、一年最初の月に「バハ」という名前を与えている(注釈 139を参照)。
149.死者を・…棺に入れて埋葬するよう、主は定めたもうた。¶128
バブは、「バヤン」で、故人は、水晶または磨かれた石でできた棺に置かれるべきであると定めた。ショーギ・エフェンデイは、代理によりかかれた手紙で、この規定の意義は、「不滅なる人間の魂により一度崇高にされた」身体に敬意を表するためであると説明されている。端的に言うと、故人の埋葬に関するバハイの法律は、遺体を死亡の地点から一時間以上動かすことを禁止するものであり、遺体は、絹または綿でできた布に包み、その指にはある言葉を刻んだ指輪をはめる、ということである。その言葉は、「私は神から来たものであり、恵み深き方、憐れみ深き方という神の御名にしっかりと捕まって神以外のすべてから離脱して神に戻るのである」である。また、棺は、水晶、石、堅い上等の木でできたものであるべきとする。「故人のため」の特別な「祈り」は(注釈 10参照)は、埋葬の前に唱えられるべきである。アブドゥル・バハ及び守護者により証言されているように、この法律は、故人の火葬を除外する。正式な祈りと指輪は、成熟の歳、つまり15歳に達した者に意図されている(質疑応答 7。)。棺を作る材料については、法律の精神は、棺が、できる限り耐久性のある物であるべき、ということである。故に、万国正義院は、アグダスに規定されている材料の他に、最も堅い木やコンクリートを棺に使うことに問題はないと説明しているのである。現時点では、これについては、自分なりに選択することができる。
150「バヤンの点」¶129
「バヤンの点」は、バブが自身を指して使った称号の一つである。
151死者を五枚の絹または木綿の布で包むよう・…¶130
「バヤン」で、バブは、故人の遺体は、絹または綿でできた五枚の布に包むべきである、と述べている。バハオラは、この規定を確認し、「財源が限られている人々に関しては、どちらかの布一枚で十分である」という規定を加えている。法律の中で言及されている「五枚の布」とは、「五回巻いて十分な長さの布」なのか、「これまで習慣として使ってきた五枚の布」なのか、と聞かれて、バハオラは、意図は、「五枚の布を使うこと」と答えている(質疑応答 56)。遺体が包まれるべき方法は、バハイ文書には、「五枚の布」が使われるにせよ、「一枚の布」にせよ、遺体の包み方がどうであるべきかという定義はない。現時点では、バハイはこれについて自分の判断を用いることができる。
152故人の遺体を、町から一時間以上の距離を越えて運ぶことは禁じられている。¶130
この命令の意図は、遺体を埋葬の場所に持っていく交通手段が何であれ、その移動時問が1時間を越えない、ということである。バハオラは、埋葬が早くなされれば、なされるほど、「より適切で、よいことである」と確認している(質疑応答 16)。死亡の場所とは、その人が死亡した都市や町を含むので、1時間の移動時間は、その町の境界線から埋葬の場所の間で計算される。バハオラの法律の精神は、亡くなった人が、死亡の場所の近くに埋葬される、ということである。
153神は、バヤンで課せられた旅の制限を除きたもうた。¶131
バブは、「約束された人物」の到来まで有効である旅に関する制限を定めた。「約束された人物」が到来したら、信者らは、歩いてでも彼の面前に達するよう、指示されていた。なぜなら、彼の面前に達することが、彼らの、生存そのものの実りであったからである。
154対を成す聖なる場所の二つの家と…・主の玉座が確立された他の場所を高め、賞賛せよ。¶133
バハオラは、「二つの家」をバグダッドの家一一それは「最も偉大なる家」として彼により定められている一一とシラーズのバブの家であると見なしている。両方とも、バハオラにより、巡礼の場所として定められている。(質疑応答 29、32、54参照)。ショーギ・エフェンデイは、「汝の主の玉座が確立されている...他の場所」は、神の顕示者自身が住んでいた場所である、と説明している。バハオラは、「これらの家が位置する地域の人々は、彼が住んでいたそれぞれの家か」または「どちらか」を「保存することを選んでもよい」と述べている(質疑応答 32)。バハイの機構は、双子の顕示者と関連づけられているいくつかの歴史的な場所を確認し、書類に記録し、できるときにはその場所を入手し、保存してきた。
155聖なる書に記録されたことによって、この生ける書である者に耳を傾けることを妨げられぬよう注意せよ。¶134
「書」とは、神の顕示者の啓示された「言葉」である。「生ける書」とは、顕示者自身を指す。これらの言葉は、ペルシャ語のバヤンにおける「生ける書」に関するバブの言明を暗示する。バハオラ自身、ある書簡で「神の書は、この若者の形において下された」と述べている。このアグダスの節において。また、アグダスの第168段落において、バハオラは、ご自身について「生ける書」として言及している。言葉を含む。彼は、「他のあらゆる信教の信奉者らに」、「自分らの聖なる書において」「生ける書」の発言を「否定する」「理由」を見っけようとすることに対して忠告している。彼は、「書」に記されていることにより、彼の「地位」を認めることやこの啓示に収められていることにしがみつくことから妨げられないように勧告している。
156わが先駆者なる者のペンより、この啓示を賞賛して流れ出た次の言葉・・¶135
この節においてバハオラが引用している「次の言葉」とは、アラビア語の「バヤン」からの引用である。
157「ケブレとは、まことに神が現したまうであろう御方のことである。彼が休止するまでは、ケブレは彼の動きと共に動くのである。」¶137
この節の説明については、注釈 7と8を参照のこと。
158バヤンを信じる者以外との結婚は法に反することである。結婚する二人のうち、一方のみがこの大業を受け入れるならば…その所有物は相手にとって不法なものとなる。¶139
バハオラがここで引用している「バヤン」の節は、「神が顕現したもう者」の到来に対して、信者らの注意を引き出している。バビ教徒以外との結婚を禁止し、信教を受け入れた夫または妻の財産はバビ教徒でない配偶者には合法的に相続されないという規定は、バブにより明白に停止されていた。それから、施行される前に、バハオラにより廃止された。バハオラは、この法律を引用しながら、バブは、バハオラの大業がバブのそれよりも早く卓越した地位に上る可能性について明らかに予期していたことを指摘したのである。ショーギ・エフェンデイは、「神よぎり給う」の中で、「バヤン」は、「将来の世代を恒久的に導くように意図された法律と法令というよりはむしろ、主に、約束された者の賛美として見なされるべきである」と述べている。さらに、「それが課す規則や規定は厳格で、原則は革命的で、それにより、長い間存在してきた硬直状態から、聖職らと人民の目を覚まさせるよう意図されている。また、古くなり腐敗した制度に突然で致命的な打撃を与えるよう意図されている。それは、その劇的な規定内容により、予期されていた日の到来、呼出人が真剣なる仕事に呼び出す目の到来一一彼が、神の使途が祖霊前のやり方お破壊したように、彼がそれ以前のものをすべて破壊するとき一一を宣言したのである」。(注釈 109参照)
159.「バヤンの点」¶140
これは、バブの称号の一つである。
160まことに・…われの他に神はなし。¶143
バハイ文書には、神の顕示者及び顕示者と神との関係、について説明する節が多数ある。バハオラは、神の地位に関する独特で超越的な性質について説明している:「唯一で真なる神とその創造物とを結び付ける直接のつながりがない故に」、神は「あらゆる時代と宗教制において天と地の王国において純潔で汚れ無き魂が顕現されるようお定めになった」。この神秘的で天なる存在である神の顕示者は「物質界」に属する人間的性質と「神の実質そのものから生まれた」精神的性質とを持ち合わせている。顕示者は、また、二重地位を授けられている。一つは、顕示者の最も内なる本質に関係しており、自分の声が神のそれである者を示すものである...第二は、人間的な地位で、「私はあなたと同じような人間にすぎない」、「言挙げよ、わが主に賛美あれ!われは人間、使徒以上のものであろうか?」という節に代表される。
バハオラは、また、精神的領域においては、すべての顕示者の間には、「本質的な一体性」がある、と述べている。彼らは皆、「神の美」を示し、神の名称と属性を顕示し、神の啓示を発言するのである。これについて、彼はこう述べている:
すべてを包み込む神の顕示者らの誰かが「われは神である」と宣言したとしても、彼はまことに、真実を語るものであり、何等の疑いもない。なぜなら、顕示者の啓示と属性と名称の啓示により、神の啓示と名称と属性が世界において明示されてきたことは繰り返し実証されているからである…・
顕示者は神の名称と属性を明示し、人類が神とその啓示を知る手段である一方、ショーギ・エフェンデイは、こう述べている一一顕示者らは「あの目に見えざる本質、神性自体の本質」とは同一視されてはならない。バハオラとの関係に関して「人間の聖堂[身体]が、それほど圧倒的な啓示の乗り物であったことは、神の「本質」と同一視されてはならない、と守護者は述べている。バハオラの地位とその啓示の偉大さについて、ショーギ・エフェンデイは「神の日」に関する予言的言明一一過去の宗教制の聖典に見いだされるが一一は、バハオラの到来により実現した、と述べている:
イスラエルにとって、彼は「永久なる父」の化身であり「数千の聖者ともにおりてきた万軍の主」である。キリスト教世界にとっては「父の栄光におにて」再臨したキリストであり、シーア派イスラム教に取っては、イマーム・フサンの再来であり、スンナ派イスラム教では、「神の霊[イエス・キリスト]」の降臨である。ゾロアスター教徒に取っては、約束されしシャー・バラームであり、ヒンズー教徒に取っては、クリシュナの生まれ変わりで、仏教とにとっては、五番目の仏陀である。
バハオラは「神性」一一他の顕示者とも共有しているが一一についてこう述べている:
…[それは]自分において滅び、神において生きる地位である。神の性とは、われが述べるときには常に、われの完全にして絶対的なる自己抹消を意味する。これは、われが自分の幸福や災い、生命や復活に関して統制のきかかない地位なのである。
そして、神と自分の関係については、こう証言している:
おお神よ、私が、私をあなたと結び付ける関係について考えるとき、私は「まことにわれは神である」と全創造物に対して宣言するよう動かされます。そして、私自身について考えるとき、なんと、私は、土くれよりも粗野なものであると思うのです!
161ザカートの支払い¶146
ザカートは、コーランの中でイスラム教徒に課せられた規則的慈善行為を指すものである。やがて、この概念は慈善税金に形に発展していった。これはある部門の収入が定められた限度を超えると、一定の割当分を、貧者の救援や様々な慈善的目的、および神の信教を援助するために与えなければならない義務を課したものであった。免除の限度は、生産品の種類によって異なった。同様に課税され得る部分の支払い割合も異なった。
バハオラは、ザカートに関するバハイの法律は「コーランに啓示されたこと」(質疑応答 107)に従うものであると述べている。免除の限度、関連ある収入の部門、支払いの頻度、ザカートのさまざまな部門に対する割合の尺度はコーランに述べられていないため、今後それらは万国正義院によって説明されなければならないであろう。ショーギ??・エフェンディは、それらが制定されるまで、信者は自分の資力と可能性を考えてバハイ献金に定期的に献金するべきであると指摘した。
162物乞いをすることは不法である。また物乞いに物を与えることも禁じられている。¶147
ある書簡の中で、アブドル・バハはこの句の意味を説明している。かれはこう述べている。「乞食生活は禁じられている。また物乞いを職業としている人たちに施すこともまた禁じられている。」同じ書簡の中で、かれはさらに次のように指摘している。「目標は乞食生活を完全に根絶することである。しかしながら、ある人が生計を立てることができないか、貧窮に見舞われるか、または無能になった場合は、富裕者または代理人がその人の生活費として毎月一定の割当を支給しなければならない…・代理人というのは、人々の代表者を意味し、つまり、正義院のメンバーを指す。」
物乞いに施してはならないという禁令は、個人や精神行政会が貧困者や援助を必要としている人たちに財政的な援助をすること、またはその人たちが生計を立てられるように技術を身につける機会を与えることを排除するものではない。(注釈 56を参照)
163以前、他の人の悲しみの原因となった者に・…罰金が・…定められた。¶148
バハオラは隣人の悲しみの原因となったことに対する償いとしての罰金の支払いに関するペルシャ語のバヤン書の法令を廃止した。
164聖なるロートの木¶148
「聖なるロートの木」は、サドラトゥル・モンタハを指すもので、「その木の向こうには通り道がない」ことである。(注釈 128を参照)ここでは、バハオラを表すために象徴的に用いられている。
165神の句を毎朝、毎夕唱えよ。¶149
「神の句」を唱える根本的な「必要条件」は、「神の言葉を読む」ための信者の「熱意と愛」であるとバハオラは述べている。(質疑応答 68)
「神の句」の定義に関して、バハオラは「聖なる言葉の天より下されたすべて」を指すと述べている。ショーギ・エフェンディは、東洋の信者の一人に書いた手紙の中で、「神の句」はアブドル・バハの著作を含まないことを明確にした。同様に、かれは自分の著作にも当てはまらないことを指摘した。
166なんじらは、19年ごとに家の家具を新しいものと取り替えるように命じられた。¶151
バハオラは、19年ごとの家の家具の更新に関するアラビヤ語のバヤン書の命令を確認している。ただし、そうすることが可能であればである。アブドル・バハはこの法令を洗練と清潔に関連させている。この法律の目的は、古くなり、光彩を失って嫌悪感を起こすような家具を変えることにある、とかれは説明している。これには珍しい物、または秘蔵品、骨董品または宝石類は当てはまらない。
167足を洗うこと¶152
ケタベ・アグダスで、信者は定期的に入浴し、清潔な衣服を着、概して清潔と洗練の真髄であるように勧告されている。ケタベ・アグダスの概要と体系化IV.D.3y.i-viiでこれに関連する規定が要約されている。足を洗うことに関しては、バハオラは温水を用いることが好ましいが、冷水で洗うこともまた許されると述べている。(質疑応答 97)
168説教壇を使うことは禁じられた。皆に向かって主の句を唱えたいと望む者には、全人類の主なる神について語れるよう台座に座らせよ。¶154
これらの規定は、ペルシャ語のバヤン書にすでに書かれていることである。バブは説教と聖なる句の朗読に説教壇を用いることを禁じた。その代わりに、皆が神の言葉をはっきりと聞くことができるように、講話者が座れる椅子を壇上に置くべきであると明記した。
この法に関して、アブドル・バハとショーギ・エフェンディは次のように明確に注釈 した。マシュレゴウル・アズカル(ここでは説教は禁じられており、聖典の言葉の朗読のみが許されている)では朗読者は立っことも座ることもできる。皆によく聞こえることが必要であれば、低い移動可能な壇を用いることもできるが、説教壇は許されていない。マシュレゴウル・アズカル以外の場所での集会の場合、朗読者または講話者は座ることも立っこともでき、壇を用いることも許される。アブドル・バハはある書簡の、どの場所においても説教壇の使用は禁止されていることを繰り返し述べている箇所で、バハイが集まりで話をするときは、真心から謙虚な気持ちと自己を否認する態度でなければならないことを強調した。
169.賭博¶155
この禁令に含まれている諸活動はバハオラの著作には明確には記されていない。アブドル・バハとショーギ・エフェンディの双方が指摘しているように、この禁令を詳細に明記することは万国正義院に任されている。富くじ、競馬やフットポールなどへの賭け、ビンゴ、などは賭博の禁令に含まれているかどうかという質問については、万国正義院は、このことは今後詳細に考慮される事柄であるとしている。それまでは、行政会と個人はこのことを問題化せず、信者個人の良心に任せるように勧告している。
正義院は、富くじ、ラッフル、運まかせの勝負ごとによって信教の基金が集められることは適切でないと決定した。
170阿片・…人間の身体を不活発にしたり無気力にする物質の使用¶155
この阿片使用の禁令はケタベ・アグダスの最後の文節で繰り返されている。これに関して、ショーギ・エフェンディは「純潔で聖らかな生活」の必要条件の一つは「阿片、その他の習慣性の薬剤を・…完全に放棄すること」であると述べている。ヘロイン、ハシーシ、その他マリファナのようにカンナビスから引き出されたもの、エルエスディー、パオタ、それに類する物質はこの禁令に含まれているものと見なされる。
アブドル・バハはこのように書いた。
阿片に関して述べると、それは不潔で呪うべきものである。神はその使用者に与える罰からわれわれを保護されるのである。最も聖なる書の明確な句によれば、阿片の使用は禁じられており、全く非難されるべきことである。理性は阿片を吸うことが一種の狂気であることを明確にし、経験はその使用者は人間界から完全に断たれることを証明している。これほど忌まわしい悪事、人間の土台そのものを滅ぼす悪事、そしてその使用者を永遠に追放する原因となる悪事から神がすべての人々を保護されんことを願う。なぜなら、阿片によって魂が捕えられるため、その使用者の良心は殺され、知性は抹殺され、知覚力はむしばまれるからである。それは生者を死者にしてしまうのである。それは自然熱を冷やす。阿片のもたらす害より大きな害は考えられない。阿片という名さえ口にしなかった人は幸運である。それではその使用者がどれほど悲惨であるか考えてみよ。
おお神から愛されるなんじらよ!この全能なる神の周期において、暴力と強圧、強要と抑圧はすべて非難されるものである。しかしながら、人類がこの最も強大な呪いから救われるためには、阿片の使用をいかなる手段を用いても阻止しなければならない。そうしなければ、災いと苦悩がこの主への義務を果たさなかった者へ襲ってくるであろう。
アブドル・バハはある書簡の中で、阿片に関してこう述べた。「使用者、買う者、売る者はすべて神の恩寵と恩恵を奪われたものである。」
他の書簡の中で、アブドル・バハはこう書いた。
ハシーシに関して、あなたはペルシャ人の中にはその常習者となっていることを指摘した。悲しいことである。ハシーシは酔いをもたらす物質の中で最悪のものであり、その使用禁止は明確にされている。それを使用すると思考は支離滅裂となり、魂は全く麻痺してしまう。誰がどうして地獄の木の実を求め、それを摂り、怪物の性質を例証するようなことができようか。誰がどうしてこの禁じられた麻薬を使用し、すべてに慈悲深き方の祝福を奪われることができようか。
アルコールは知力を衰弱させ、人をして愚かな行為を犯させる。しかし、この阿片、この地獄の木の汚らわしい実、そしてこの邪悪なハシーシは知力を消滅させ、精神を凍らせ、魂を無感覚にし、身体を衰弱させ、人を挫折させ、滅ぼすのである。
心に留めておくべきことは、上述のある種の麻薬の使用禁止は、治療の一部として免許を持つ医師によって処方される場合はあてはまらないことである。
171「主権の印における大いなる逆転の神秘」¶157
シェイキ派の創設者であり、rバブの信教の出現を告知した二人の先覚者」の最初の人であるシェイキ・・アハマディ・アソイ(1753-1831)は、約束の人の出現により、万物は逆転し、最後が最初になり、最初が最後になるであろうと予言した。バハオラは、ある書簡の中で、「主権の印における大いなる逆転の神秘」の「象徴と隠嚥」に言及している。かれは「この逆転により、神は高き者を低め、低き者を高められた」と述べ、またこのように回想している。「イエスの時代にかれを否定したのは学識で名高い者、学者と宗教学者であった。一方、身分の低い漁夫が御国に入るために急いだ。」(注釈 172を参照)シェイキ・アハマディ・アソイに関する補足情報は「夜明けを告げる人びと」の140章参照。
172この「高潔なるアレフ」により起こされた「六」を認めた者は幸いである。¶157
シェイキ・アハマディ・アソイは自著の本の中で、アラビヤ語の文字rヴォブ」芝強く強調した。ナビールは、この文字は「神の啓示の新しい周期の出現であるバブ石象徴し、以後、ケタベ・アグダスの中の『大いなる逆転の神秘』および『主権の印』といった文節でバハオラにより言及されてきた」と述べている。「ヴォブ」の文字の名は三つの文字、ヴォブ、アレフ、ヴォブから成り立つ。アラジャッドの計算によると、これらの文字の各々の数値は、それぞれ6、1、6である。ショーギ・エフェンディは、東洋のある信者に宛てた代理による手紙の中で、このフグダスの句に解釈を与えている。かれは「高潔なるアレフ」はバブの出現を指したものであると述べている。アレフの前にくる6の数値をもつ最初の文字は、バブ以前の初期の律法時代と顕示者の象徴であり、一方、同じく6の数値をもつ第3の文字はフレフの後に顕示されたバハオラの崇高なる啓示を表す。
173必要でない限り、武器を身につけることは禁じられてきた。¶159
バハオラはバヤン書の中の、必要でない限り武器を身につけることを不法とする桂令を確認している。武器を身につけることが、個人にとって「不可欠」である状況に関してアブドル・バハは危険な環境においては自己防衛のために武器をもって良いと信者に許可を与えている。ショーギ・エフェンディもまた、代理による手紙の中で、緊急時において近くに要請できる合法な警察がない場合、バハイが自己の生命を防衛することは正しいと述べている。その他武器を必要とし、合法的に使用できる状況か数多くある。たとえば、衣食のために狩猟をする国々での使用、また弓道、射撃術、フェンシングなどのスポーツでの使用がそうである。
社会のレベルでは、バハオラ(落穂集、CX皿参照)が宣言し、ショーギ・エフェンディ(バハオラの世界秩序の中の守護者の手紙参照)が詳細に述べた集団保障の原則は武器の使用の排除を前提条件とするものではない。しかし、「軍事力は正義のしもべとされるシステム」を定め、その軍事力は「連邦全体の有機的和合を擁護する」国際平和維持軍を供給する。ビシャラットの書簡の中で、バハオラは「世界中の戦争の武器は再建の道具に変えられ、争いと戦いは人類から除かれる」望みを表している
他の書簡で、バハオラはすべての宗教の信者たちと親交を結ぶ重要性を強調している。かれはまた「聖戦の法は聖なる書から消された」と述べている。
174絹で装うことは許された。¶159
イスラム教の慣例では、絹を身につけることは、聖戦の時以外は一般的に禁じられていた。コーランの句に基づいたものではないこの禁令は、バブによって廃止された
175主は・…以前適用されていた衣服や髭の刈り方に関する制限を除きたもうた。¶159
衣服に関する多くの規則は、世界の諸宗教の法律および伝統的な慣例に起源する。たとえぱ、シーア派の僧侶は特徴のあるヘッドドレスと衣を採用し、またある時期にはヨーロッパ風の衣服を禁じた。イスラムの習わしにも、予言者の習慣を模倣したいという望みから口ひげの手入れやあごひげの長さに関していくつかの制限がもうけられた。
バハオラは衣服やひげに関する以上の制限を取り除いた。かれはそういった事柄を各人の「思慮分別」に任せ、同時に信者に礼儀の埼を越えないように、また衣服に関わることすべてに中庸を守るように求めた。
176おおカフとラの地よ!¶164
カフとラはイランの都市および地方の名称であるケルマンの最初の二つの子音である。
177われは、なんじから密かにこっそりと放散しているものを感知する。¶164
この文節は、ケルマン市に関連のあるミルザ・ヤーヤ(注釈 190参照)に従う者ら、アザリのグループの陰謀に言及するものである。その中には、モラ・ジャファー、その息子シェイキ・アハマディ・ルヒとミルザ・アガ・カニケルマニ(両者共にミルザ・ヤーヤの義理の息子)、およびミルザ・アハマディ・ケルマニがいた。かれらは信教を密かに害しようとしただけでなく政治的な陰謀にも加わった。これは後にナセルディン皇帝の暗殺となった。
178モハメッド・ハサンという名のシェークを想起せよ。¶166
イスラム教シーア派の指導的代弁者の一人であるシェイキ・モハメッド・ハサンはバブを拒絶㌧た。シーア派の法制に関する多数の書の著者であるかれは、1850年頃死亡したと伝えられている。
ナビールは「夜明けを告げる人びと」の中で、生ける文字の一人であるモラ・アリイバスナミとシェイヰ・・モハメッド・ハサンのナジャフで起こった出会いを叙述している。その出会いの間に、モラ・アリはバブが現れたことを宣言し、その啓示の力強さを称揚した。このシェイキの扇動により、モラ・アリは直ちに異端であると宣告され、その集会から追放された。かれは裁判にかけられ、イスタンブールκ移され、重労働の刑を言い渡された。
179.小麦と大麦のふるい手¶166
これは、イスファハンで最初にバブの信教を受け入れたモラ・モハメッド・ジャファー・ガンダムパッククンを指すものである。かれはペルシャ語のバヤン書に述べられ「使徒の衣を着た」人として賞賛されている。「夜明けを告げる人びと」の中で、ナビールは「小麦のふるい手」がメッセージを無条件に受け入れ、その新しい啓示をいかに熱烈に唱道したかを述べている。かれはシェイキ・タバルシの砦の防御者の一団に加わり、包囲攻撃された時に亡くなった。
180「予言者」という言葉によって、この最も偉大なる宣言から引き止められないように注意せよ。¶167
バハオラは「洞察力」をそなえた人びとに、自分たちの聖典の解釈によって神の顕示者を認めることを妨げられないように警告している。各々の宗教の信者は、自分の宗教の創立者への献身からその啓示が最後の神の言葉であると理解し、その後に予言者が出現する可能性を否認しがちであった。ユダヤ教、キリスト教、およびイスラム教の場合もそうであった。バハオラは過去の宗教制においても、自らの宗教制においても、この最終性の概念は真実でないと述べている。イスラムに関して、かれは「確信の書」にこう書いた。「コーランの民は・…『予言者の封印』という言葉を自らの目を蔽うベールとし」、「理解力をくもらせ、多種多様な神の恩寵を失った」。かれは「このテーマが・…全人類の悲痛な試練となってきた」ことを確認し、「これらの言葉に愛着し、自分たちの真の啓示者である方を信じなかった者らの」運命を嘆いている。バブはこの同じテーマに言及し、このように警告している。「なんじらの主である方から名のべ一ルに妨げられて引き離されないように。たとえそれが予言者という名であっても。なぜなら、そういった名は神の言葉から創造されたものであるに過ぎないからである。」
181「代理人」という言葉へのいかなる言及によっても、神の代理である方の主権から除外されるな。¶167
ここでは「代理人」と訳されているが、アラビヤ語の原文では「ビラヤット」であり、「守護者」、「保護者」、または「後継者」をはじめとして多くの意味を含む。これは神自身との関連、神の顕示者との関連、または顕示者の任命された後継者との関連において用いられている。
このアグダスの句で、バハオラはこの概念によって新しい神の顕示者、真の「神の代理人」の「主権」に盲目にならないように警告している。
182カリムを想起せよ。¶170
ハジ・ミルザ・モハメッド・カリム・カニ・ケルマン(1810一約1873)はシェイヰ・・アハマディ・アソイ(注釈 171 注釈 172参照)の任命を受けて後継者となったセイエド・カーゼムの死後、自己任命でシェイキ共同体の指導者となった。かれはシェイキ・アハマディの教えを推進するために献身した。かれが出した意見は、かれの指示者と反対者の間で同様に議論の的となった。
当時の指導的な学者であり多作の著者の一人と見なされていたかれは、その時代に発達していたさまざまな分野の学問に関して数多くの本と書簡を書いた。かれはバブとバハオラに激しく反対し、自分の論説を用いてバブとその教えを攻撃した。バハオラは「確信の書」の中で、かれの著作の論調と内容を非難し、バブヘの否定的な言及が書かれているかれの著作の一つを取り上げて批判している。ショーギ・エフェンディはかれを「異常に野心的で偽善的である」と述べ、また、いかにかれが「皇帝からの特別な要請により、論説の中で、この新しい信教とその教義を悪意をもって攻撃した」かを記述している。
183おおなんじら、バハの学識者たちよ。¶173
バハオラは信者の中の学識者をほめたたえている。聖約の書の中で、かれは「バハの人びとの中の支配者と学識者に幸いあれ」と書いた。この言葉に言及して、ショーギ・エフェンディはこう書いた。
この聖なる周期において「学識者」とは、一方では神の大業の翼成者であり、また他方では、翼成者の地位は占めないが、布教活動で卓越した地位を獲得した布教者であり普及者である。「支配者」は地方、全国および国際正義院のメンバーを指すものである。これらの人びとの各々の義務は将来定められるであろう。
神の大業の翼成者はバハオラから任命され、さまざまな義務、特に信教の保護と普及を任された人たちである。「忠実なる人びとの追憶」の中で、アブドル・バハは他の卓越した信者たちを大業の翼成者として言及した。そして遺訓の中で、信教の守護者に随意に大業の翼成者を任命する規定を含めた。ショーギ・エフェンディは、最初、すでにこの世を去っている何人かの信者を大業の翼成者の地位に高め、かれの生涯の後半にすべての大陸から合計32人の信者をこの地位に任命した。1957年のショーギ・エフェンディの逝去の年から1963年の万国正義院の選挙の年までの期間、大業の翼成者は、バハオラの萌芽期にある世界連邦(注釈 67参照)の主なる管理者として信教の事業を導いた。1964年11月、万国正義院は大業の翼成者を任命できる法を制定することはできないと決定した。その代わりに、1968年、万国正義院は信教の保護と普及に関連する大業の翼成者の機能を大陸顧問団を創設することにより、また、1973年、聖地に国際布教センターを設立することにより将来に向けて拡大した。
万国正義院は国際布教センターと大陸顧問団のメンバーを任命する。顧問補佐は大陸顧問団によって任命される。これらの人びとはすべて、上述した文章でショーギ・エフェンディが定義した「学識者」の中に含まれる。
184聖なる書の中で理解できないことは何であれ、この強大な根茎から分岐したかれに尋ねよ。¶174
バハオラはアブドル・バハに、自らの聖なる書を解釈する権限を与えている。(注釈 145参照)。
185超絶的な唯一性の学舎¶175
この句とそれに続く句で、バハオラは、バヤンに約束された者であるという自らの要求をなぜバビたちが拒絶したかの理由の一つに直面している。かれらの拒絶はバブが「神が顕示される方」に書いた書簡に基づくもので、その書簡の裏側にバブはこう書いていた。「神が顕示したまう方の眼差しが最初の学舎のこの文字を照らしたまわんことを願う。」この書簡は「バブの著作の抜粋集」に出版されている。これについてバビたちは、バハオラはバブより二年年上であり、バハオラがこの書簡を「最初の学舎」で受け取ることは不可能であると主張した。
バハオラは、これは存在の次元を超えた精神界で起こっている出来事に言及したものであると説明している。
186われは・…かれがわれに提示した神の句を受け入れた。¶175
「神が顕示される方」に宛てた書簡の中で、バブはバヤンを自分からバハオラヘの捧げ物であると特徴づけている。(バブの著作の抜粋集を参照)
187バヤンの人びとよ!¶176
バブに従う人たちを指す。
188「存」と「在」という二つの文字が合わされ、結ばれた。¶177
ショーギ・エフェンディは、代理による手紙の中で、「存と在の二つの文字」の意味を説明した。この二つの文字は「存在」という言葉を構成し、それは「その命令により万物を生み出す神の創造力」、および「神の顕示者の威力、その偉大なる精神的な創造力」を意味するものであると述べている。
「存在せよ」という言葉の命令は、アラビヤ語の原文では「クン」であり、「カフ」と「ナン」の二つの文字から成り立っている。ショーギ・エフェンディはこれを上に述べたように訳した。この言葉はコーランの中で、万物を存在に呼び起こす神の命令として用いられた。
189.この新しい世界秩序¶181
ペルシャ語のバヤン書の中で、バブはこう述べた。「バハオラの秩序に目を据え、主に感謝を捧げる者は幸いである。なぜなら、その方は必ず顕示されるからである。まことに神はバヤン書の中で、それを最終的に定めたもうたからである。」ショーギ・エフェンディはこの「秩序」をバハオラがアグダスで描いた聖なるシステムと同一視している。その中で、バハオラはそれが人類の生活におよぼす革命的な影響を証言し、その働きを支配する法律と原則を明らかにしている。
「新世界秩序」の特徴はバハオラとアブドル・バハの著作、およびショーギ・エフェンディと万国正義院の手紙の中で叙述されている。バハオラの世界秩序の「構造基盤」を成す現在のバハイ行政秩序機構は成熟し、バハイ世界連邦へと発展していくであろう。これに関して、ショーギ・エフェンディはこの行政秩序は「その構成要素、その有機的機構が能率的に、活力をもって機能し始めるにつれて、その要求を主張し、その能力を表示するであろう。それは、時期が熟せば、全人類を包含するように定められている新世界秩序の中核としてのみでなく、パターンそのものとして考えられるものである。」
この新世界秩序の発展に関する補助的情報は、一例として「バハオラの世界秩序」の中に出版されているショーギ・エフェンディの手紙を参照。
190おお、倒錯の源泉よ!¶184
これは、サビヒ・アザル(永遠の朝)として知られるミルザ・ヤーヤに言及したものである。かれはバハオラの異母弟で、バハオラに対して立ち上がり、その大業に反対した。ミルザ・ヤーヤは差し迫っている約束の人の出現までの間、バブよりバビ共同体の名目上の頭に指名された。セイエド・モハマディ・エスファハニ(注釈 192参照)の扇動によりミルザ・ヤーヤはバブの信頼を裏切り、自らバブの後継者と宣言し、バハオラに対して陰謀を企て、かれを殺害させようとさえした。アドリアノープルで、バハオラが正式に自らの使命をミルザ・ヤーヤに宣言したとき、それに応えてかれは自分が独立した啓示を受けた者であるという要求を長々と出した。やがて、かれの主張はアザリ(注釈 177参照)として知られるようになった少数を除いた全ての人に拒絶された。ショーギ・エフェンディはかれを「バブの聖約の主なる破壊者」(神よぎりたまう、第十章参照)として記述している。
191なんじが大業に奉仕できるよう、いかにわれが、日夜なんじを養育したかを思い起こせ。¶184
ショーギ・エフェンディは「神よぎりたまう」の中で、ミルザ・ヤーヤよりも13才年上であったバハオラが、かれが年少のときから大人になるまで助言し、見守った事実に言及している。
192神はなんじを迷わせた者を捕らえたもうた。¶184
ショーギ・エフェンディが「バハイ啓示の反キリスト」と記述したセイエド・モハマディ・エスファハニを指す。かれは堕落した性格と個人的な大野心をもった男で、ミルザ・ヤーヤをそそのかしてバハオラに反対させ、自らが予言者であると要求させた。(注釈 190参照)。セイエド・モハマディはミルザ・ヤーヤの支持者であったけれども、バハオラと共にアッカに追放された。かれはバハオラに対して扇動を起こし、陰謀を企て続けた。ショーギ・エフェンディは「神よぎりたまう」の中で、かれの死亡したときの状況をこのように書いた。
いま、新たな危険が明らかにバハオラの生命に迫っていた。バハオラ自ら数回にわたって信者たちに、口頭によっても、書き物によっても、迫害者に仕返しをすることを厳しく禁じた。また、自分の師が虐待を受けて苦しんだことに対して復讐を企てていた無責任なアラブ人の改宗者をベイルートに返したりもした。しかしながら、バハオラの従者のうち7人が内密のうち迫害者のうち3人を探し出し、殺害したのであった。その中にセイエド・モハメッドとアガ・ジャンが含まれていた。
すでに圧迫を受けていた共同体をとらえた驚きは叙述できないものであった。バハオラの憤りは計り知れなかった。かれはこの犯行後まもなく書いた書簡の中で、自らの感情をこのように表現している。「われに降り掛かったことを述べれば、天は裂け、山は砕けるであろう。」かれは、他の折にこう書いた。「わが監禁はわれを傷っけはしない。われを傷つけるものは、われに関連あると宣言しながら、わが心とわがペンが煩悶することを犯すわれを愛する者らの行動である。」
193Note ¶189
バハオラは、万国共通の言語と文字の採用を命じている。彼の文書には、このプロセスにおいて、二つの段階が描かれている。第一段階は、現存する言語、または発明された言語を選び、次に世界中の学校で母国語の補助語として教えることである。世界中の諸政府は、その議会を通して、この重大なる法律の制定をするよう、呼びかけられているのである。第二段階は、遠い将来、結局は、地上すべての人のために、一つの言語と共通の文字が採用されることである。
194Note ¶189
バハオラの文書において言及されている人類の成熟の最初の印は「聖なる哲学」として描写されている科学の出現で、これは、元素の変換という劇的な方法の発見を含む。これは、未来の膨大なる知識の拡大の輝かしさを示すものである。バハオラが、ケタベ・アグダスの中で指摘していると述べている二つめの「印」について、ショーギ・エフェンディは、こう述べている。「バハオラは、その最も神聖なる書の中で、地上のすべての人びとが使用するために一つの言語を選び、共通の文字を採用することを命ぜられた。これは、彼ご自身がその書の中で確証されているように、実行されたときには、『人類の成熟』印となるような命令なのである。」この人類が大人になり成熟するプロセスにさらに洞察を与えてくれるのは、バハオラの次の言明である。
世界の成熟の印の一つは、誰も王権の重みに耐えることを受け入れることがなくなるということである。王権は、誰も、その重みを一人で耐えることがなくなるであろう。その日こそは、英知が人類の間に顕現される日である。
人類の成熟は、ショーギ・エフェンディにより、全人類の統合、世界共同体の確立、「全人類の知的、道徳的、精神的生活」への前例のない刺激と結びつけられている。
Bahá'u'lláh